『ロボット』(原題『RUR』) カレン・チャべック:人間は無為徒食になるのか☆1☆ | 対内言語と、対外言語と!

『ロボット』(原題『RUR』) カレン・チャべック:人間は無為徒食になるのか☆1☆

著者: 千野 栄一, カレル・チャペック, Karel Capek
タイトル: ロボット
著者: Karel Capek, Claudia Novack, Ivan Klima
タイトル: R.U.R. (Rossum`s Universal Robots) (Penguin Classics)
著者: Karel Capek, Paul Selver, Nigel Playfair
タイトル: Rossum`s Universal Robots (Dover Thrift Editions)

Karel Čapek Karel Čapek


 ロボットという言葉はこの戯曲で生まれて世界中に広まった。
 1917年にチャべックは最初の単独の著書である哲学的幻想小説集《受難像》を出版した。
 その三年後、戯曲《ロボット》(原題《RUR(エル・ウー・エル)》)を発表した。この作品によってチャべックは、チェコSFの創始者となった。同時に、世界的にその名を知られるようになった。この作品の中でチャべックが初めて使った「ロボット」という新造語は、その後世界中に広まった。そしてこの「ロボット」の概念は、世界のSFに影響を与えることになるのである。
 但し、彼が思い描いたロボットは、現在の純粋な機械としてのロボットではない。生理学者によって試験管の中で科学的に作り出された「生物としての人造人間」である。その点では「試験管ベビー」「遺伝子操作」「クローン人間」といった現代の”今の問題”と関係している。
   
 ところでカレル・チャべックの故郷「チェコ」には、ユダヤ人の人造人間伝説がある。16~17世紀プラハのユダヤ教の律法師(ラビ)レーヴ師が、秘術によって土から作って命を与えた「ゴーレム」伝説である。
 ゴーレムは、召使としてラビに仕えていたが、ラビの不注意から狂って暴れ出し、破壊行為を始める。ラビはすぐにゴーレムの動きを止めた。二度と生き返らせなかった、と言う。
 このゴーレム像は、しかし、世紀を超えて復活する。第一次世界大戦(1914~18年)以後、「もはや止められないゴーレム」「世界を破壊するゴーレム」という不吉なイメージに変容してだ。「人類を滅ぼす」チャベックのロボットも、このゴーレム像の系譜に繋がる。

《ロボット》(21年初演)の粗筋は次の通りである。
 天才的な生理学者が、原形質なような生きた物質を作り出すことに成功し、そこから人造犬を、次いで人造人間を作った。
 だが、その甥の技師は、人間から余計なものを取り去った労働機械のような生物であるロボットを作る。それを商品として大量生産し始め会社の社長ドミンのところへ、若い女性へレナが訪ねて来る。ここからこの戯曲は始まる。
 十年後、労働から解放されて無為徒食の存在となった人類を、ロボットは憎み始める。ドミンの妻となったヘレナは、人間を退化させて生産能力を喪失させたロボットの製造を止めさせようとして、生命製造の秘密を記した文書を燃やす。
 ロボットは反乱を起こして、一人を残して人類を皆殺しにするが、生命製造の秘密が分からないために、ロボットも自らを再生産することができずに、何れ滅びる運命となる。
 だが、一組のロボットの間に愛が生まれ、彼らが新たな人類を生み出すところで、この戯曲は終わる。


 機械文明の発達がはたして人間に幸福をもたらすか否かを問うた予言的(?)作品である、と云われている。

 この作品で彼は、「純粋」な科学的発見・発明も、社会・経済・政治の流れと無縁ではあり得ず、否応なしにそれに巻き込まれて「利用」ないしは「悪用」されてしまうことをも描いている。
 そして人間の作り出したものが人間自身の手を離れて制御不能になり、最終的には人類を滅ぼす可能性をも示している。
 これは彼の他のSF作品である《絶対子工場》・1921年、《クラカチット》・24年、《山椒魚戦争》・36年にも共通するモチーフである。

 ところで、《ロボット》において、人類が滅びる原因は、単に文明の物理的・物質的側面にだけにあるのではないと訴えている。精神的な側面にこそ、人類が滅びる原因があるのだと。
 確かに、人間は生産のための労働の他に、読書をする・スポーツを楽しむ・音楽を聴く等の余暇活動を行なっている。だが、これは「生産」という観点からは「無駄」なものであろう。この最も人間らしい部分である「無駄」を除去した「ロボット」は、効率的で完全な生産機械と化した、「NEET問題は労働意欲問題」だとばかりす日本の政治家の無意識の愛玩物のような「グロテスクな擬似人間」である。
 この擬似人間が世界中に蔓延ることによって、本来の人間の存在そのものが「無駄」で不必要になってしまう。一方人間は、「グロテスクな擬似人間」にあらゆる仕事を押し付けて労働を忘れることによって無為徒食の存在と化してゆく。この点では、「働かずも者食うべからず」の原則を守らず全国一律サービスを主張する「郵政民営化反対」の政治家の同じであろう。「働く者は賃金が高く、働かない者は賃金が低い」経済原則を無視するだけでなく、その働きによってよって得た賃金を「働かない者」に分配すると称して「税率を操作」し、その「計算システムを複雑怪奇」にすることによって、「自己の仲間」には「働かずに賃金を得られる」職場を創出し、「働かず者大いに贅沢すべし」を実現させ、自らは「無為徒食の存在」と化し、政治不信や官僚不信を招いている。そういう「労働」を知らない者達であるからこそ、尚更「すべてを労働意欲の問題」とすることで自らの「隠れ蓑」とするわけであろう。
 
 チャベックの作品では、これらの事情から、人間は子供を生む能力を失ってしまうのである。文明の発展によって逆に退化して、子孫を残す能力を失った人類は、直接ロボットによって、先の例で言えば「政治家」や「官僚役人」によって滅ぼされずとも、自ら絶滅する運命にあったわけである。これに眼をつけたのが元首相・森さんかも知れない。もっとも少子化問題も彼等無為徒食であろうとする政治家や官僚・役人等が生み出した問題であると云え、残念ながら「森さんの出番」でもなさそうである。

 ところで、この作品での『人間はロボットにあらゆる仕事を押し付けて労働を忘れることによって、無為徒食の存在に化していく」と警告しているこの場面は、しかし、それは西欧人の「問題意識」であって、日本人とは無縁だろう。それについては、また次の機会に!