少数民族沖縄人の願い! 宮古以南への移住による新国家樹立と知事権限の国への移行の早急実現 | 対内言語と、対外言語と!

少数民族沖縄人の願い! 宮古以南への移住による新国家樹立と知事権限の国への移行の早急実現

 マンチェスター発でスペイン領カナリア諸島のテネリフェ行きモナーク航空機。

 アイルランド国籍で英中部に住んでいるとみられる男性が、離陸後まもなく酒を要求して断られたことに立腹して暴言を繰り返し、再三の警告も無視したという。<機内で酔って迷惑行為の男性、大西洋の小島に降ろされる

 日本にも「日本の防衛」という問題に「立腹し暴言を繰り返し、座り込みや妨害行為という暴力をもって、それに対する再三の警告を無視している」沖縄人なる少数民族([検証・米軍再編](3))を、個人主義的自由主義に基づいた資本主の日本国という飛行機から降ろそうではないか。「沖縄独立を」25% 4割「沖縄人」と認識>

 私は日本国沖縄県民とする認識であるが、沖縄には「広島人とか神奈川人とかは県民の意味であるが、沖縄人には県民の意味はなく、少数民族沖縄人とする意識がある」と認識している日本国内少数民族沖縄人ではないし、その意識ももってはいない。

『日本、外国がそれぞれの良さに気づいて切磋琢磨しあい、共栄共存できたら、すばらしいですね。』〈夢をカタチに!e-ビジネス45さん〉 

 本当にそうあれば素晴らしい。

 
 旧約聖書の『イザヤ書』の中に次のような言葉がある。

≪狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く≫(イザヤ書11章6節)、この言葉はイスラエルが異教徒の悪意の中にも安全に住みうることを示す比喩的表現である。

 民族とはそれぞれが偏見をもった存在である。ある民族の「真善美」はある民族にとっては「偽悪醜」であり、両者ともにその価値観や意識は正当性をもち、合理性をもったもので、何かを基準にして―現在では国連決議であろうか―正誤・当否を問う対象ではないのである。

 実際の狼と子羊は一緒に住めない。生物学的に狼と羊とは、その行動原理が異なる。豹と山羊も共に寝床を共にすることはできない。この出来ない違いとは、人間で言えば各民族の持つ価値観・伝統・倫理感等々なのである。

 そして人間は動物と異なり、この違いをそのままにして、共存共栄はできるとしたのがイザヤの言葉なのである。

 国連とは各民族間の意見調整機関であっても、何らかの意味での世界統一機関ではない。私達は比喩的表現ながら、イザヤが示した「世界の民族が、民族同士の悪意の中にも安全に住みうる」祖形は手中にしている。

 しかし、今だかつてそれを具体的な形にし得た時代はない。現代もまたそうである。

 20世紀、世界は科学技術の発展によって急速に出会ってしまし、各民族は激しく衝突した。しかしそれはイザヤの言葉から見れば当然のことだったのである。そして衝突し得た後、世界はそれぞれの民族が、かつてイスラエルが置かれた状況になったのである。

 西洋は東洋を支配しようとしたとして、西洋に対する反省の強要、あるいはそういう西洋は終わった。東洋の時代だとする学者も多い。しかし私は「西欧はイザヤの言葉を忘れていたし、また、東洋はイザヤの言葉を知らなかった」との認識である。

 従って、前世紀を「戦争の世紀」とする見方には「ある意味そうだが、それは次の時代が平和の時代だとする意味でない」とする見方をしている。

 沖縄人は「共生」を口にしながら、それを口にする人が「ユイマール」とも叫び統合失調症(精神分裂症)が殆どである。

 ピンク・フロイドというロック・バンドのメンバーの一人がレコーディング状況を聞かれて「僕達はうまくやっている。

 世界も僕達のようにうまくやっていければいい」と言い、この言葉を真似て沖縄の某バンドが「沖縄人は出会えば兄弟、島中皆家族の意識で、すべての民族、文化の受容を拒絶せず、拒否せず、この島の中でチャンプルーとなってうまくやっている。世界も僕達のような平和を志向する民族のようにうまくやっていければいい。イエェ~イ!」とぶち上げた姿をテレビ画面に晒していた。確かコザ市、失礼、沖縄市の何とかバンドだったと記憶している。

 この場合ピンクの言葉と沖縄市某バンドの言葉は同じであり、その情況も同じである。それではこの二つは全く同じなのであろうか。違う。

 ピンクの言葉はイザヤの言葉を前提にしている。「俺とあいつは何もかもが違う。しかし・・・」の「仲良くやっている」であるが、沖縄人の言う「仲良く」とは「俺もお前も同じウチナーチュやさに~」の「仲良く」である。

 まあ、よくて「同じ人間として」であろうか。

 ユイマールはイザヤの言葉を否定することによってのみ成立する。自分の基準と他人の基準を明確に別と認め、互いに律せず律せられず(縛らず縛れられず)という態度を取り、そしてそれが自他の基準の違いを確認して、はじめて両者の間の共通項を求めて、絶えず討論するという態度になり得るのが、イザヤの言葉の大前提である。

 イザヤの言葉とは正反対、否、それを積極的に否定、排撃することで成立するのが「ユイマール」=島のDNA(上野千鶴子東大教授)なのである。

 自分の基準と他人の基準を明確に同一とし、互いに律し律せられるという態度を取り、そしてそれが自他の基準の同一性(アイデンティティー)を確認して、はじめて両者の間の協力を求めて(互譲意識)、絶えず接触するという態度(ネットワーク社会)になり得る。

 このユイマール意識を大前提として、沖縄人的平和思想(?)があるのである。その思想とは「自己と他者を同一にする」しての共存共栄と意味であり、自分は時折冗談半分で「もしあの少数民族沖縄人の国家があって、それが現在のイスラエルの位置にあれば、彼等は周辺民族に”平和のために同じなれ”と主張して、それが原因で一昼夜にして滅びるだろうね。そして世界は周辺民族の行為を正当なものとして支持するだろうね」と言ったりしている。

 彼等少数民族沖縄人(4割「沖縄人」と認識)は日本人沖縄県民ではない。従って、宮古以南への強制移住を早急に実施すべきである。この主張は子どもの主張ではなく、琉球大学という国立の機関に勤めている常識ある社会人の主張であり、この主張の掲載もまた公的機関の新聞社である。冗談半分とか、腹立たしいとかの理由で口に出てくる類のものではない。

 私たち日本人は沖縄県内に住んでいる少数民族沖縄人の処遇を本気になって考えてやるべきだろう。