対内言語と、対外言語と! -65ページ目

韓国とアイルランドは非常に似ている!

                          5-22 木内美穂


 沖縄県には、実際の沖縄県のほかに「沖縄問題」というもう一つの世界がある。この”論じられている世界”は存在しない。
 その存在しない世界には、独立論なるものがある。沖縄人は津軽人や長州人や肥後人やアイヌ人がそうであるように、倭人の一派である。しかし地理的に遠距離にあったこともあって、独立性(独自性ではない)の高い文化性を持った。この風土性を梃に政治論へ転化させると、琉球国独立論が、ホムンルクスのように試験管の中で出来る。
 さらにこの「琉球国」論者は、島津の琉球侵略後、また明治の琉球処分(廃藩置県)後、日本にくっついていて碌なことがなかった。中国との「山師投機師」的時代がぼろ儲けできたと、大航海時代を理想化して語る。
 明治後、近代国家としての「日本」についていって碌なことがなかったのは、日本全国同じである。この問題は、日本における近代国家は何かという枠の中で語る問題である。

 洪思翊が大尉だった頃、日本における韓国人への差別・蔑視は、当たり前の状態だった。だが帝国陸軍の大尉に向かって直接に「差別・蔑視」の態度を取るものはいなかった。しかし家族は例外とはなりえなかった。
 思翊の息子・国善氏はその頃少年であり、「チョーセン、チョーセン」と理由なき蔑視と嘲弄を受ける日々はまことに苦しいものであったらしい。ある日ついに溜りかねて父・思翊に訴えた。
「なぜ自分たちはこういう扱いを受けるのか、これはどうにかならないものか」
「これは大変に困った問題。難しい問題、また早急に解決できるとは思えぬ問題である。自分はこのことについて大分調べたが、アイルランド人とイギリスの間に、非常によく似た問題である。それゆえアイルランド人の行き方が我々の参考になるであろう。アイルランド人はイギリスで、どのような扱いを受けても、決してアイルランド人であることを隠さない。そして名乗るときは必ずはっきりと『私はアイルランド人の誰々です』と言う。お前もこの通りにして、どんな時でも必ず『私は朝鮮人の洪国善です』とハッキリ言い、決してこの『朝鮮人の』を略してはいけない」 
 彼には改姓を説得しようと思っても、そこに、何となくそう言わせない一面を持っていた。これはそれを感じさせる逸話である。日本人は韓国人に改名を強要した。もっとも「法匪」的になら、「強制したのではなく、希望者だけにそれを勧めた」という言訳は成立する。しかし「特攻の志願」であれ「幹部候補生の志願」であれ、「志願」(現代語では”自主的”乃至は”反省が足りない”)という名の強制は全体主義的思想集団では決して珍しくない。この強制的創始改名という事件では自殺者まで出ている。この発想に我々日本人が今なおもつ欠陥がそのまま現れている。
 この創始改名の結果、当時日本軍の中にいた少数の韓国系将校も、洪思翊中将を除き、その名を聞いただけで韓国人とわかる人は一人もいなかった。一定年齢以上の韓国人は全員「ある時期否応なくもたされていた日本姓」を「許し難き記憶」としてもっている。その中で、唯一人の例外的人物が洪思翊なのである。
 関係者によれば、彼の日本語の発音は極めて韓国式で、それを聞いただけですぐ韓国人とわかったそうである。そして彼自身「自分は韓国人だから日本語の発音が韓国指揮になるのは当然だ」といったごく自然な調子で、無理に日本式にしようとせず、それが当たり前のように同道と韓国式発音の日本語を駆使したという。つまりどこから見ても、明確な韓国人だったのである。
 彼だけが、改名を言わせない雰囲気を持っていたために、非日系将校という異例な存在であり得た。かつて帝国陸軍の大佐クラスであった多くの韓国人は、「あなた方がまず率先垂範してほしい」という形で、実に執拗に改名の「説得」を執拗に受けている。日本側の発想は、まずトップを”説得”すればあとは「右へ倣え」をするであろうという行き方である。これは昨今のフジサンケイ対ライブドアのトップの発言、その発言と常に一致した発言を行う現場という形で、厭になるほど見せ付けてくれたが、この発想は日本人の伝統的な行き方だから、当時少将であった彼は格好な目標になり得た。民間人の創始改名にも日本側は同じ行き方をし、まず名門や名望家にこれを行わせている。
 洪思翊のみ、韓国人にあって「創始改名の説得」を日本側に行わせなかった唯一の人物だった。現代では、韓国とアイルランドのを対比する人は多い。あらゆる面で似ていることは否定できない。だが彼がアイルランド問題を研究し、勧告のことを、日韓の関係をイギリス・アイルランドといった形で捉えていたのは70年前のことである。そして当時はこの関係に関心を持った日本人は皆無である。
 彼の専攻は戦史だったから、あらゆる国々に戦史家として関心をもったことは不思議ではないが、その中で「イギリス陸軍におけるアイルランド系将校の問題、特にその忠誠の問題」にも関心を持ったのだろう。彼は当時、どのような日韓関係を夢見ていただろうか? 彼は戦史家として、また軍の中枢にいる者として、さらに明確な韓国人としての意識をもち日韓関係をイギリスとアイルランドとの関係に類似して把握していた者として、太平洋戦争の将来をどのように予想し、その結末における日韓の関係をどう把握し、そこにおいて自分は何をすべきだと考えていたのか。このことは彼を、アメリカ人が戦犯として処刑し、人生を終えるまでまでの足跡を追えば自然とわかることではある。

 幻想幻影論でしかない「琉球国独立論」の中にも、沖縄=アイルランド説がある。この説は「沖縄に米軍基地が存在するのは戦争体験者がいるからで、彼らは戦時中”喜んで軍部に協力した”が、アメリカ上陸が沖縄だけだとするアメリカの戦略が承服できない」者達の、本土への当て付け論でしかない。韓国=アイルランド類似説を、猿真似的に幻影幻影論の中で混合させたものでしかない。御
 その粗末君達の末裔は、今日も浜辺で「まじゅん、あしびなー」が下半身の詐りなき心であるが、それを隠して上半身は一端の「民俗論者・民族論者・人類学者」になったつもりの奇怪な説を唱えているのである。

個人の人格とバアル神とその信徒たち⇔≪枕草子≫段202;五月の長雨のころ、

                                5-21


 五月の長雨の頃、上の御局の小戸の簾に、斎信の中将の寄りい給へりし香は、まことにをかしうもありしかな。
 その物の香とも覚えず、おほかた雨にもしめりて、えんなるけいしきの、めづらしげなことなれど、いかでかいはではあらん。
 またの日まで、御簾にしみかへりたりしを、わかき人などの世にしらず思へる、ことわりなりや。


 愛しき人の訪れた香りが、第三者にも「その香」の残りでわかってしまい失笑する光景である。

 私たち現代人は、ごく限られた身近な人を除き、人の匂いや香りを嗅ぐ機会を失った。その代わり、バアル神(偶像の神)の御心に適う情報のみで、その味を知る紛れものに満たされているのだ。


 匂いとか香りとかは、現代の社会で言えば、実際の匂いや香りに相当するものではない。どちらかと言えば、その個人の人格に寄り添う「匂い」とか「香り」を指すものであろう。
 現代はマス・メディア(媒体による大量情報交流)による高度情報時代と云われている。特に日本のマスコミは、読者や視聴者の感情の批准を目的とした情報を流し、またその感情の批准を促す(納得する)情報でなければ読者や視聴者は受け取らない。従ってマスコミ的評価がそのまま通用する人が多数存在する社会でもある。漱石の『草枕』の冒頭の「情に棹差せば流される」ではなく、自ら「情に棹差して流される」時代なのである。従って次から次へとマスコミ主導によるキャンペーン型のブームが起こりやすくなっている。「情に棹差す」とは「七情激発」のことである。人間が本来持つ「喜・怒・哀・畏・愛・悪・欲」の欲情の自己抑制することなく、爆発(激発)させることが人間的とされる社会になっているのである。
 この「情棹差す」ことをマスコミは媒体の中で増幅させて社会へ放出する。その媒体=巫女に従う人は、それによって社会を、人を見る。賛否の対象も、正誤・当否も、その巫女の「情に棹差す」観点で語る。こうして個人乃至は社会の「影像(イマーゴ)」が形成される。高度情報社会の「バアル神(バアルの偶像)」は、この「影像(イマーゴ)」で社会を満たそうとするから騒がしい。バアルの信徒は神よりも騒がしい。バアルとは絶対神の権化である。日本は八百万の神々の住まう国である。ある絶対神の信徒になって人を、社会を、批判・非難する性癖は持っていない。
 こういう時代にあって、個人の人格=匂いや香りを社会に留めるにはどうしたら良いのであろうか。やはり絶対神「バアルの偶像」マス・メディアの信徒とならず、ブームに鈍感で、情に棹差して流されるよう気をつけているしかないだろう。自ら騒々しくしては終わりだ。


 沖縄は梅雨……長雨の頃である。愛しき人の香りが残った枕草子の頃を騒々しい社会に夢想する。
 

等価交換は成立するのか?≪夜市≫第12回日本ホラー小説大賞:恒川光太郎

              5-20 斉藤

 

日本人は裁判を嫌う。
 その理由を聞かれて「こうですから」と明確に答えきれる人は殆どいない。かつての日本人はこうではなかった。自己の従うウルトラ・モラル(超模範=宗教)や思想を言葉にして、相手に言えた。
「裁判などというものは必要ない。因果応報で、すべて平等になってしまうのだから……」、こう鈴木正三(徳川初めの禅僧)
 日本人は輪廻転生の世界観で生きている。『妙好人伝』(幕末近く)に財布を盗まれたときにどう考えるべきかという話しが出てくる。誰がどう考えても、財布を盗まれたことを合理的とは思えない。だがそれを自分が前世で財布を盗んだ、と考える。前世で財布を盗んだ。だから現世でお返しした。本当は自分で返しに行かなくてはならないものを、取りに来てくださったのだから、大変に有難い。それでは、現世で自分が財布を盗むとどうなるか。これは来世でお返ししなければならない。だから止めておこうということになる。
 好感得れば、一切問題は解決し、不合理なことはすべきでなくなる。そうしてこう考えれば、自分の内なる合理性と、外なる合理性を繋ぐことができず、世の中は矛盾に満ちた不合理なものとなってしまう。そこで以上のように考えることが、一種の悟り=救いになるわけである。 
 もし日本が本当にこれが信じられれば、人間は一番幸せだと思う。それで割り切ってしまえば、例えば聖書のような、正しい人がなぜ苦しむのかとする「義人の苦しみ」などなく、前世の因果で片付くから、旧約聖書の世界のように、また現在のユダヤ人のように徹底的に執拗にそれを追求する必要はなくなる。

 第12回日本ホラー小説大賞(角川書店・フジテレビ主催)の選考会が先月22日あり、大賞に恒川光太郎さん(31)の「夜市」が選ばれた。賞金は五百万円である。
 長編賞は大山尚利さん(30)の「チューイングボーン」、短編賞はあせごのまんさん(42)の「余は如何にして服部ヒロシとなりしか」。授賞式は10月末を予定している。

〔著者略歴〕
 1973年、東京都生まれ。現在31歳。大東文化大学経済学部卒業。5年前より沖縄に在住。現在、塾講師。


「夜市」の<あらすじ>は…
 大学生のいずみが友人の祐二に誘われ訪れた夜市。
 そこは一度足を踏み入れたら、売られている品物を買わなければ帰ることができない、魔の市場だった。
 祐二はいずみに、幼い頃に弟と夜市に来た時のことを話した。彼は人攫いに弟を売り、ひきかえに野球選手の才能を買って夜市から出たのだった。二人の前に、その弟そっくりの子供が売られていた。
 祐二はいずみに、僕を売ってあの子を買い戻してくれと持ちかけるのだが……。


 兄は弟の人生と自己の才能を前世(夜市)で盗んだ。現世(夜市)で自己の人生のみを盗ませればバランスは取れる、とする現代日本人…だが、その盗んだ人はまた来世(夜市)で…… 
 


長編賞(賞金300万円)≪チューイングボーン」大山尚利≫
<あらすじ>
 大学を卒業して一年、原戸登のもとにゼミの同窓の島田里美から電話がかかる。会って話しがしたいという。登は期待を胸に待ち合わせに向かうが、里美は奇妙な依頼とビデオカメラを残して去った。小田急線ロマンスカーの展望車から、三度、外を撮影して欲しいというのだ。 この撮影で、一度ならず二度までも、登は列車に人間が衝突する瞬間を目撃、撮影することになる。そして、約束の三回の撮影を終えてから里美に説明を求めようと思いながら、最後の撮影に出かけると、またしても自殺者が現れ……。
 ビデオカメラと共に渡された預金通帳には、高額の報酬が振り込まれていた。なぜ、彼らは死んだのか、なぜ自分に撮影の依頼があったのか。登の謎解きが始まる。

〔著者略歴〕
1974年、東京生まれ。現在30歳。和光大学人文学部文学科卒業。現在、自営業。


 短編賞(賞金200万円) ≪余は如何にして服部ヒロシとなりしか ≫あせごのまん
〔あらすじ〕
 31歳の誕生日を前に彼女にふられ、何もかも嫌になって辞表を提出した僕。僕は前を歩く女性のあとをふらふらとついていったが、彼女は僕のかつての同級生、服部ヒロシの姉であった。彼女に招き入れられ、ヒロシの帰りを待つことにするが、彼は一向に帰ってこない。服部家には、僕たちが中学三年の文化祭で作ったセットの風呂が未だに置いてあった。帰りそびれているうちに、僕は服部家で次々に恐ろしい儀式を経験することになり……。

〔著者略歴〕
 1962年、高知県生まれ。現在42歳。
 1981年大阪府立守口北高校卒業、1986年関西学院大学文学部卒業。
 1993年関西学院大学大学院文学研究科博士課程後期課程満期退学。現在、仏教大学、大阪産業大学、他、非常勤講師。
 日本ホラー小説大賞  過去の大賞受賞作〕
第1回(1994年)
 大賞:受賞作なし
 佳作:「蟲」著:板東眞砂子
    「混成主―HYBRID―」著:カシュウ・タツミ
    「郵便屋」著:芹沢準

第2回(1995年)
 大賞:「パラサイト・イヴ」著:瀬名秀明
 長編賞:受賞作なし
 短編賞:「玩具修理者」著:小林泰三
 
第3回(1996年)
 大賞:受賞作なし
 長編賞:受賞作なし
 佳作:「十三番目の人格(ルビ:ペルソナ) ―ISOLA―」著:貴志祐介
 短編賞:受賞作なし
 佳作:「ブルキナ・ファソの夜」著:櫻沢順
 
第4回(1997年)
 大賞:「黒い家」著:貴志祐介
 長編賞:「レフトハンド」著:中井拓志
 短編賞:「D-ブリッジ・テープ」著:沙藤一樹
 
第5回(1998年)
 大賞:受賞作なし
 長編賞:受賞作なし
 短編賞:受賞作なし
 
第6回(1999年)
 大賞:「ぼっけえ、きょうてえ」著:岩井志麻子
 長編賞:受賞作なし
 佳作:「スイート・リトル・ベイビー」著:牧野修
 短編賞:受賞作なし
 佳作:「お葬式」著:瀬川ことび
 
第7回(2000年)
 大賞:受賞作なし
 
第8回(2001年)
 大賞:「ジュリエット」著:伊島りすと
 長編賞:「夏の滴」著:桐生祐狩
 短編賞:「古川」著:吉永達彦
 
第9回(2002年)
 大 賞:受賞作なし
 
第10回(2003年)
 大 賞:「姉飼」著:遠藤徹(あついすいか改め)
 長編賞:「相続人」(「怨讐の相続人」を改題)著:保科昌彦
 短編賞:「白い部屋で月の歌を」著:朱川湊人

第11回(2004年)
 大 賞:受賞作なし            

 

『漱石山房』、新宿区に大正時代(サロンの雰囲気)の匂い復元へ!

                       『漱石山房』復元 

 

 夏目漱石(1867~1916)が死去までの9年間住んだ「漱石山房」(東京都新宿区)を、旧居跡に復元する計画が進んでいる。山房は漱石が「こころ」や「明暗」など代表作を執筆、芥川龍之介ら門人・知人が集まったところで、近代日本文学を象徴する場でもある。  

 漱石がここに移ったのは、明治40年9月29日である。それ以前は西片町にいた。漱石は、新宿区牛込区喜久井町1(江戸牛込馬場下横町)で生まれたから、何となく懐かしい気分がして、この土地に移転し、ここで生涯を終えたのだろうか。  


 現在この土地を所有する新宿区は、来月にも有識者や地域の人を含めた懇談会を開き、復元の方法や活用の仕方などを具体的に話し合う予定であるらしい。旧居跡は現在、同区立漱石公園(同区早稲田南町7番地)になっている。

  旧居は敷地が約1000平方メートルあり、漱石没後、家族が住んだが、45年の空襲で焼失した。その後、敷地の約半分に区営アパート1棟が建ち、残りが漱石公園となり、そこに漱石の胸像や『吾輩は猫である』にちなむ猫塚がある。この公園に書斎と応接間などを復元する計画だが、アパートがあるため、全体の復元は難しい。

  旧居の設計図は残されていない。写真や本人、知人が書き残した記述などを総合して復元するという。書斎と応接間はそれぞれ8畳で、廊下に囲まれていたという。「正確な設計図がなくても十分、復元できると思う」と語るのは、漱石の長男故純一氏に生前、間取りなどを詳細に聞き取り、概略図を描いたことのある工学院大学の中山繁信教授(建築学)である。  


 漱石本人は『文士の生活』(夏目漱石氏-収入-衣食住-娯楽-趣味-愛憎-日常生活-執筆の前後:「大阪朝日新聞」1914〈大正3〉年3月22日)において、この山房について次のように語っている。

 ≪此家は七間ばかりあるが、私は二間使って居るし、子供が六人もあるから狭い。家賃は三十五円である。家主は外との釣合があるから四十円だと云ってくれと云って居るが、別に嘘を云う事もないと思って、人には正直に三十五円だと云って居る。家主が怒るかも知れぬ。地坪は三百坪あるから、庭は狭い方では無い。然し植木は皆自分で入れたのだから、こんな庭の附いている家としたら、三十五円や四十円では借りられないだろう。植木屋と云うものは勝手なもので、一度手入れをさせたら、こっちで呼ばないのに、時々若い者を連れて仕事にやって来る。物の一月余りもこちこち其処辺をいじって居る事がある。別に断わるのも妙だと思って、何とも云わずに居るが、中々金がかかる。 私はもっと明るい家が好きだ。もっと奇麗な家にも住みたい。私の書斎の壁は落ちてるし、天井は雨洩りのシミがあって、随分穢いが、別に天井を見て行ってくれる人もないから、此儘にして置く。何しろ畳の無い板敷である。板の間から風が吹き込んで冬などは堪らぬ。光線の工合も悪い。此上に坐って読んだり書いたりするのは辛いが、気にし出すと切りが無いから、かまわずに置く。此間或る人が来て、天井を張る紙を上げましょうと云ってくれたが、御免を蒙った。別に私がこんな家が好きで、こんな暗い、穢い家に住んで居るのではない。余儀なくされて居るまでである。≫  

 また芥川龍之介の描写する『漱石山房』の秋・冬は次のようだった。

 ≪夜寒の細い往来を爪先上りに上つて行くと、古ぼけた板屋根の門の前へ出る。門には電灯がともつてゐるが、柱に掲げた標札の如きは、殆ど有無さへも判然しない。門をくぐると砂利が敷いてあつて、その又砂利の上には庭樹の落葉が紛々として乱れてゐる。 砂利と落葉とを踏んで玄関へ来ると、これも亦古ぼけた格子戸の外は、壁と云はず壁板と云はず、悉く蔦に蔽はれてゐる。だから案内を請はうと思つたら、まづその蔦の枯葉をがさつかせて、呼鈴の鈕を探さねばならぬ。それでもやつと呼鈴を押すと、明りのさしてゐる障子が開いて、束髪に結つた女中が一人、すぐに格子戸の掛け金を外してくれる。玄関の東側には廊下があり、その廊下の欄干の外には、冬を知らない木賊の色が一面に庭を埋めてゐるが、客間の硝子戸を洩れる電灯の光も、今は其処までは照らしてゐない。いや、その光がさしてゐるだけに、向うの軒先に吊した風鐸の影も、反つて濃くなつた宵闇の中に隠されてゐる位である。 

 硝子戸から客間を覗いて見ると、雨漏りの痕と鼠の食つた穴とが、白い紙張りの天井に斑々とまだ残つてゐる。が、十畳の座敷には、赤い五羽鶴の毯が敷いてあるから、畳の古びだけは分明ではない。この客間の西側(玄関寄り)には、更紗の唐紙が二枚あつて、その一枚の上に古色を帯びた壁懸けが一つ下つてゐる。麻の地に黄色に百合のやうな花を繍つたのは、津田青楓氏か何かの図案らしい。この唐紙の左右の壁際には、余り上等でない硝子戸の本箱があつて、その何段かの棚の上にはぎつしり洋書が詰まつてゐる。それから廊下に接した南側には、殺風景な鉄格子の西洋窓の前に大きな紫檀の机を据ゑて、その上に硯や筆立てが、紙絹の類や法帖と一しよに、存外行儀よく並べてある。その窓を剰した南側の壁と向うの北側の壁とには、殆ど軸の挂かつてゐなかつた事がない。蔵沢の墨竹が黄興の「文章千古事」と挨拶をしてゐる事もある。木庵の「花開万国春」が呉昌蹟の木蓮と鉢合せをしてゐる事もある。が、客間を飾つてゐる書画は独りこれらの軸ばかりではない。西側の壁には安井曽太郎の油絵の風景画が、東側の壁には斎藤与里氏の油絵の艸花が、さうして又北側の壁には明月禅師の無絃琴と云ふ艸書の横物が、いづれも額になつて挂かつてゐる。その額の下や軸の前に、或は銅瓶に梅もどきが、或は青磁に菊の花がその時々で投げこんであるのは、無論奥さんの風流に相違あるまい。 もし先客がなかつたなら、この客間を覗いた眼を更に次の間へ転じなければならぬ。次の間と云つても客間の東側には、唐紙も何もないのだから、実は一つ座敷も同じ事である。唯此処は板敷で、中央に拡げた方一間あまりの古絨毯の外には、一枚の畳も敷いてはない。さうして東と北の二方の壁には、新古和漢洋の書物を詰めた、無暗に大きな書棚が並んでゐる。書物はそれでも詰まり切らないのか、ぢかに下の床の上へ積んである数も少くない。その上やはり南側の窓際に置いた机の上にも、軸だの法帖だの画集だのが雑然と堆く盛り上つてゐる。だから中央に敷いた古絨毯も、四方に並べてある書物のおかげで、派手なるべき赤い色が僅ばかりしか見えてゐない。しかもそのまん中には小さい紫檀の机があつて、その又机の向うには座蒲団が二枚重ねてある。銅印が一つ、石印が二つ三つ、ペン皿に代へた竹の茶箕、その中の万年筆、それから玉の文鎮を置いた一綴りの原稿用紙――机の上にはこの外に老眼鏡が載せてある事も珍しくない。その真上には電灯が煌々と光を放つてゐる。傍には瀬戸火鉢の鉄瓶が虫の啼くやうに沸つてゐる。もし夜寒が甚しければ、少し離れた瓦斯煖炉にも赤々と火が動いてゐる。さうしてその机の後、二枚重ねた座蒲団の上には、何処か獅子を想はせる、脊の低い半白の老人が、或は手紙の筆を走らせたり、或は唐本の詩集を飜したりしながら、端然と独り坐つてゐる。……  漱石山房の秋の夜は、かう云ふ蕭條たるものであつた。≫


≪わたしは年少のW君と、旧友のMに案内されながら、久しぶりに先生の書斎へはひつた。 

 書斎は此処へ建て直つた後、すつかり日当りが悪くなつた。それから支那の五羽鶴の毯も何時の間にか大分色がさめた。最後にもとの茶の間との境、更紗の唐紙のあつた所も、今は先生の写真のある仏壇に形を変へてゐた。 しかしその外は不相変である。洋書のつまつた書棚もある。「無絃琴」の額もある。先生が毎日原稿を書いた、小さい紫檀の机もある。瓦斯煖炉もある。屏風もある。縁の外には芭蕉もある。芭蕉の軒を払つた葉うらに、大きい花さへ腐らせてゐる。銅印もある。瀬戸の火鉢もある。天井には鼠の食ひ破つた穴も、……  わたしは天井を見上げながら、独り言のやうにかう云つた。「天井は張り換へなかつたのかな。」「張り換へたんだがね。鼠のやつにはかなはないよ。」 Mは元気さうに笑つてゐた。 十一月の或夜である。この書斎に客が三人あつた。客の一人はO君である。O君は綿抜瓢一郎と云ふ筆名のある大学生であつた。あとの二人も大学生である。しかしこれはO君が今夜先生に紹介したのである。その一人は袴をはき、他の一人は制服を着てゐる。先生はこの三人の客にこんなことを話してゐた。「自分はまだ生涯に三度しか万歳を唱へたことはない。最初は、……二度目は、……三度目は、……」制服を着た大学生は膝の辺りの寒い為に、始終ぶるぶる震へてゐた。 

 それが当時のわたしだつた。もう一人の大学生、――袴をはいたのはKである。Kは或事件の為に、先生の歿後来ないやうになつた。同時に又旧友のMとも絶交の形になつてしまつた。これは世間も周知のことであらう。 又十月の或夜である。わたしはひとりこの書斎に、先生と膝をつき合せてゐた。話題はわたしの身の上だつた。文を売つて口を餬するのも好い。しかし買ふ方は商売である。それを一々註文通り、引き受けてゐてはたまるものではない。貧の為ならば兎に角も、慎むべきものは濫作である。先生はそんな話をした後、「君はまだ年が若いから、さう云ふ危険などは考へてゐまい。それを僕が君の代りに考へて見るとすればだね」と云つた。わたしは今でもその時の先生の微笑を覚えてゐる。いや、暗い軒先の芭蕉の戦ぎも覚えてゐる。しかし先生の訓戒には忠だつたと云ひ切る自信を持たない。 

 更に又十二月の或夜である。わたしはやはりこの書斎に瓦斯煖炉の火を守つてゐた。わたしと一しよに坐つてゐたのは先生の奥さんとMとである。先生はもう物故してゐた。Mとわたしとは奥さんにいろいろ先生の話を聞いた。先生はあの小さい机に原稿のペンを動かしながら、床板を洩れる風の為に悩まされたと云ふことである。しかし先生は傲語してゐた。「京都あたりの茶人の家と比べて見給へ。天井は穴だらけになつてゐるが、兎に角僕の書斎は雄大だからね。」穴は今でも明いた儘である。先生の歿後七年の今でも……  その時若いW君の言葉はわたしの追憶を打ち破つた。「和本は虫が食ひはしませんか?」「食ひますよ。そいつにも弱つてゐるんです。」 Mは高い書棚の前へW君を案内した。

     ×   ×   ×  

 三十分の後、わたしは埃風に吹かれながら、W君と町を歩いてゐた。「あの書斎は冬は寒かつたでせうね。」 W君は太い杖を振り振り、かうわたしに話しかけた。同時にわたしは心の中にありありと其処を思ひ浮べた。あの蕭条とした先生の書斎を。「寒かつたらう。」 わたしは何か興奮の湧き上つて来るのを意識した。が、何分かの沈黙の後、W君は又話しかけた。「あの末次平蔵ですね、異国御朱印帳を検べて見ると、慶長九年八月二十六日、又朱印を貰つてゐますが、……」 わたしは黙然と歩き続けた。まともに吹きつける埃風の中にW君の軽薄を憎みながら。  1921年(大正11年)12月の冬の漱石山房を訪問した人の当時の様子である。  


 区では今年度から3年計画で、7500万円規模の同公園のリニューアルに取り組んでいる。当面は公園を補修し、山房復元や完成後の維持管理、活用の仕方などについては来月中にも懇談会を開いて意見を聞く予定で、中山弘子区長は「漱石ファンや地域の方の声を聞きながら具体化していきたい」としている。  漱石の旧居のうち「吾輩は猫である」を書いた東京・千駄木の家は、愛知県犬山市の明治村に移築、保存されている。



”坊ちゃん”この男、社会と無謀に衝突した個人主義者につき!

                            5-18 秋元


 江戸時代の戯作者、式馬亭三馬の作品は他の江戸小説と違って近代小説の匂いを発していた。「無くて七癖」と言われる人間の癖をを三馬は書いたのである。何とか屋の長兵衛さんは、こんあ悪い癖があって、銭湯に行った時その癖が出て、どうこうだったという程度の話しである。この三馬の”匂い”に基づいて書かれたのが漱石の『坊ちゃん』である。
                             

著者: 夏目 漱石
タイトル: 坊ちゃん 少年少女日本文学館 (2)

 この作品は、漱石が松山中学在任当時の体験を背景としている。物語りは、物理学校を卒業後直ちに四国の中学に数学教師として赴任した直情径行の青年”坊ちゃん”が、周囲の愚劣・無気力などに反撥し、職を投げ打って東京に帰るまでを描いて行く。主人公の反俗精神に貫かれた奔放な行動、滑稽と人情の巧みな交錯などは、講談本を読む楽しさがある。
『親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている』(冒頭)という「無鉄砲という癖」と「江戸っ子の正義感」という二つだけの癖だけを柱にして書かれた作品である。この癖を、歴史学者の安部謹也氏は「世間と無謀に衝突する癖」として捉えている。つまり”坊ちゃん”は、社会と無謀に衝突した個人の物語でもあるわけである。
 東京人”坊ちゃん”は地方である伊予(愛媛)松山社会と無謀に衝突して、大地に根を生やしたらしき地方の有志と衝突し、敗北し、東京へ帰るだけの話しである。現代では、この”地方の有志”なるものが地方の改革の最大の障害であることは、衆知の事実であるから、その意味で無謀とは云え、その有志と衝突した”都会人・坊ちゃん”は、現代において勝利した人間であるとも言える。
 ところで”坊ちゃん”が衝突した「社会」なるものとは一体何なのだろう。その「社会」なるものの日本人の定義は、「悪く言われまい、良く思われたい」ための自己の言動の基準者である。従って、基準者からの「罵詈讒謗」には非常に弱い。世界一「罵詈讒謗」に脆い。「社会」とは常に自己の顔を向ける対象でり、そこから後ろ指を指されないことに努力する対象である。従って「社会が」とか「社会的評価では」などいう言葉が絶対性を持っている。人の顔はその方にだけ向いている。従ってその顔が未来や過去に向かうわけがなく、他社会に他国に向かうわけもない。
 そういう「社会では」とか「社会的評価では」等を絶対とする人は、「地において報い」得るが、そのためにそれを失うまいとする「奴隷」でもある。絶えず、常に「ご主人様の方へお顔をお向け」であり、常に「ご主人様のご意向によりますと」である。
 ”坊ちゃん”が衝突した「社会」とは所謂、奴隷乃至はメイドのご主人様でしかない。この逆になれば、人はこの世においてすでに「奴隷乃至はメイド」状態からの解放という大きな「報い」を天において得て、この地にいて自由であることができる。これが個人主義的自由主義者の立場である。
 奴隷やメイド達は、また狂信的な世俗信仰者でもあり得る。幼い頃から彼等は、マスコミや新聞等から「社会」という主の名を覚える。ご主人様「社会」を恐れることは奴隷にとっての知識の始めなりで人生をスタートし、新聞・マスコミという俗人の聖なる書で育まれ、ご主人様「社会」が唯一絶対の律法になる。奴隷やメイドが「社会」に「顔向けできない」とする心理状態になるのは当然であり、これは人間や社会の本性ではない。奴隷乃至はメイドであるに過ぎない人であるのである。
 ご主人様「社会」の奴隷やメイドがこの世の勝者になるわけでもなく、ご主人様「社会」の評価に従って生きても社会が改良されるわけでもない。だが日本人は、合いも変わらず「ご主人様社会」信仰を持ち続けたいようである。

三島生誕80年目の『春の雪』と元号!

                        5-17 国仲

 最も親しみのある日本の文学者は夏目漱石と三島由紀夫である。この二人には面白い共通点がある。「元号年」生まれだと言うことである。 

 元号の存続については、かつては(今でもそういう人はいるかも知れないが)、=軍国主義復活論の材料とされた。そしてその人たちは「元号について何も知らない人」であるらしい。 元号には定期改元と不定期改元とがる。これが一世一元制へと移行した。定期改元は、康保元年(964年)にはじまり、以後、万寿・応徳・天養・元久・正中・元中・文安・永正と60年ごとに続き、戦国期のために1564年には行われず、この一回だけ抜けて、次いで寛永・貞享・永享・文化・元治(1864年)と続き、次いで明治の一世一元制になる。これは甲子の年、そして原則としてその三年前の辛酉にも行われている。 

 この間に不定期改元が入る。 

 この元号の在り方は964年から一貫して継続している日本の伝統である。 この伝統も知らないのが「軍国復活論主義者」であるらしく、何でも「軍国主義時代」にそれを強制されたからという。昭和5~20年までの間に、初代天皇から昭和天皇までを丸暗記させられた教育はあったはずだが、「元号教育」などは存在しなかった。誤った伝統主義教育のせいだろう。従ってこの時代に教育を受けた人間は「伝統皆無人」だと言って過言ではないところがある。    

 元号のその時代を見ていると実に面白い。まるで元号のその名に合わせるかのように、時代が染まっているのである。もっともピタリとはいかない時代もあるが。 漱石は明治、由紀夫は昭和、それぞれの元号の匂いを含んだ作品を残した。特に三島には彼の同世代人と同じく「日本の伝統」が無い。かと言って悪しき伝統主義で日本軍国主義的でもない。遥かに西洋的で論理的なのである。  

 今年は敗戦60年にあたるという。だが自分には何らの感慨もない。また各種行事や催しにも興味が沸かない。戦争を経験した昭和など、たかだか15年である。平和な昭和という時代の四分の一にも満たない。自分達にとって「昭和」とおいう二文字の下に「戦争」などという不始末の言葉はない。昭和5年にその当時の人々が方向を誤らなければ、戦争を経ずして、今の繁栄をその時から気づけたことは多くの体験者、書物、研究書が示す通りである。最も世界が戦争に巻き込まれていたので、全くの無傷というわけにはいかなかっただろうが。  

 今年は昭和元年から数えで80年である。三島生誕80周年でもある。その⇒文豪のラブストーリー に中村獅童との結婚発表でファンを驚かせた竹内結子が出演する。映画「春の雪」である。 

                     

著者: 三島 由紀夫
タイトル: 春の雪

 原作者の三島由紀夫は生誕80周年に合わせて、神奈川では記念展、福岡アジア映画祭ではイベントを実施する。

蓮華と偽善者と  夢★物語

            5-16  


  私は吊橋を歩き出した。

 途中まで来ると、川の方で何かがもがいている気配がした。 

 川を覗き込む。女が溺れている。私は無表情でそれを眺めている……  

 そこは浅瀬なのだ。 

 溺れるはずがない。 

 にも拘らず女は必死になって溺れている。

 そう思った瞬間…私は橋の上で笑い転げている女を見上げていた。 

 女は腹を抱えて笑い転げている。 

 私は「ここは浅瀬」と立とうとした。次の瞬間…私は下流へ向かって、物凄い勢いで流され始めた。 

 私は流される。橋の上の女の笑いが止んだ。

 形相を変え髪を逆立て、口の両端から牙を剥いて川の上を走って来る。 

 私は物凄い勢いで流される。女は追いかけて来る。 

 後ろを振り返ると滝…前には…女は飛び上がった。両手にはきらりと光るナイフ…滝から落ちた。 

 気が着くと、木の根元に座っていた。5百㍍以上はある大木である。雲の遥か上、その先が見ない。 

 木は大地に至るにつれ二股に分かれていた。その間を轟々と水が溢れ出している。 

 遠くから”懐かしさを感じる”女が近づいて来た。右手に蓮華の花束を持って微笑を浮かべて駆け寄って来る。 

”ギーッ、ギーッ”と云う軋む音がした。見上げると滝の上に女が形相を戻して立っていた。 

 その目は怨みに歪んでいた。 

 私は駆け寄って来た女に手を引かれ、花畑へと駆けて行った。

都会の素肌と田舎の教養:ターナー島 《坊ちゃん》

          ターナー島(四十島)

   

 夏目漱石が松山中学在任当時の体験を背景とした初期の作品『坊ちゃん』…物理学校を卒業後直ちに四国の中学に数学教師として赴任した直情径行の青年”坊ちゃん”が、周囲の愚劣・無気力などに反お暑し、職を投げ打って東京に戻るまでを描いた作品…物語りは主人公の反俗精神に貫かれた奔放な行動と、滑稽と人情が巧みに交錯して行く。  

 

著者: 夏目 漱石

タイトル: 坊っちゃん

 

 この作品に《ターナー島》が出てくる。『……向こう側を見ると青島が浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと言っている。野だは絶景でげすと言っている。絶景だかなんだか知らないが、いい心持には相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。 「あの松を見たまえ、幹がまっすぐで、上が傘のように開いてターナーの絵にありそうだね」と赤シャツが野だに言うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲がりぐあいったらありませんね。ターナーそっくりですよ。」と得意顔である。  ターナーとはなんのことだか知らないが、聞かないでも困らないことだから黙っていた。舟は島を右に見てぐるりと回った。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平らだ。赤シャツのおかげではなはだ愉快だ。できることなら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられんこともないですが、釣りをするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。俺は黙っていた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかとよけいな発議をした。赤シャツはそいつはおもしろい、われわれはこれからそう言おうと賛成した。このわれわれのうちにおれもはいってるなら迷惑だ。おれには青島でたくさんだ。』(『坊ちゃん』より) 田舎人・松山の人に教養があり、都会・東京人の方が無教養であるシーンで面白く、教養的松山人に対する坊ちゃんの感情も面白い。「田舎者らしく、青島をターナー島などと洒落て呼ぶなよ」と言っているようにも思えるし、「田舎者ほど教養ぶるから面倒だよ」と言っているように思える。 この感情は東京人には良く分かる。東京で「雑誌から抜け出したファッション」に身を包んでいるのは「あの人地方出身ね。地元の人なら、”これが自由が丘ファッション”って紹介されているこの雑誌見てさ、それ真似しないもの」であるから。地方人ほど「これが東京だとマスコミで全国に報道されている東京の格好をしている」のだから。  

 地方・沖縄もまた教養ぶる人の多い土地である。何かと横文字思想で表現される「沖縄文化」なる代物……その実体となると。


 

 ターナー島(四十島)は三津浜のさらに北、高浜港の沖合に浮かぶ周囲150mの小さな島。周辺は四十島瀬戸と呼ばれ、潮流が激しいことで知られている。この釣りのシーンによってこの島は「ターナー島」と呼ばれるようになった。樹齢150年を越す松は、1977年マツクイ虫の被害にあって枯死した。現在の松は、ターナー島のシンボルを蘇らせようとする人々の手によって植樹されたものである。現在25本ほどになっていると言う。

ヘブライ=ヘレニズム文化:現代に伝わる「言葉=光=法」

          世界に拡がるユダヤ・伝説聖書

〔05-10 Ω書評Α『聖書』〕へ、ブログタイトル『作家&社長とか★成田青央xx blog』から、記事タイトル『別冊歴史読本の「世界に拡がるユダヤ・聖書伝説」に執筆しています。』でTBを頂きましたが、そのブログを訪ねたら文字化けでしたので削除させていただきました。  


著者: 山本 七平, 白川 義員

タイトル: 聖書の旅

著者: 山本 七平

タイトル: 聖書の旅

著者: 山本 七平, 山本 良樹

タイトル: 山本七平とゆく聖書の旅


 戦前から日本では、聖書について様々な珍説があるらしい。そしてそれらの珍説は、常に、その人自身が一度も聖書を読んでいないことを証明するものであるようだ。「聖書は白人中心主義」なる珍説もある。 

 旧約聖書の場合には、セム族が中心となる。セム族は白人ではない。尤も、まず「白人」という言葉の定義を明確にしなければならないだろう。これをインド=アリアン系諸人種の意味とする。従って直接間接に旧約聖書に登場する「白人」は、ミタンニ人(インド系)、ペルシア人(イラン系)、ヘテ人(ヒッタイト=コーカサス系)、スキタイ人(スラブ系)、ペリシテ人(海の民?乃至はギリシア系?)である。これらの人々をインド=アリアン系とする。しかし俗に言う白人には入らない。 

 新約聖書にはギリシア人とローマ人が登場する。だが彼等はゴイム(異教徒)である。それ以外の人種、ドイツ人・イギリス人・フランス人などと言った白人の先祖は登場しない。 

 近代において世界の中心であるかのように振舞っている英・独・仏という諸民族は、紀元後の新約時代になっても、まだバルバロイ(蛮族ども)である。そして日本女性の憧れの地であり国際線スッチ-の憩いの場である、パリやウィーンは辺境の流刑地である。この人たちを「白人」と規定する。すると当然に、この「白人」に関する記述が紀元前164年に終わる旧約聖書に登場しなくても不思議ではない。 

 また聖書には「黒人」も登場しない。黒いアフリカの記述は聖書にはない。聖書の著者が知っていたのはエチオピアとその周辺までである。また彼等は東アジアも知らず、日本人や中国人も知らず、モンゴル系、トルコ系諸族も知らない。従って聖書の著書は、広大な視野と該博な知識をもつ百科全書の知識人ではなかった。 聖書が成立した世界は、現代の基準で見れば驚くほど矮小な瘠せ地である。だがこの地の中央部は、ギリシアのペロボンネソス半島と、その狭さも地形も奇妙に似ていて、オリブや葡萄といった風物も似ている。さらにギリシアの石炭岩質の山とその麓の泉、その泉を中心とした集落の形成、山上の避難用小城壁都市とそこに住む支配者と神々の聖所など、初期のカナン系の小都市を思わせる。またミュケナイやテュリンスの石の積み方は、メギドやハゾルの古層を思わせる。さらに狭い瘠せ地は、ピラミッドも空中庭園も万里の長城も生み出せなかった。また一大帝国を形成することもなかった。 

 セム族とギリシア人、両者が残したものは「言葉」だけである。西欧文明・文化の基礎を成したヘブライ・ヘレニズム文化、それだけである。 

闘争のロマンには無縁‡【落花は枝に還らずとも/会津藩士・秋月悌次郎】第24回新田次郎文学賞

                      
             
  著者: 中村 彰彦
  タイトル: 落花は枝に還らずとも―会津藩士・秋月悌次郎 (上)
  タイトル: 落花は枝に還らずとも―会津藩士・秋月悌次郎 (下)

 4月1日、イラクに派遣されていた第三一海兵遠征部隊(31MEU)所属の航空戦闘部隊が普天間飛行場に帰還した。3月31日に在沖米海兵隊報道部は、ニュースリリースを発表した。この中で、イラク任務を終えた帰還兵を「英雄として歓迎してほしい」と要望した。沖縄タイムス 4/1  

 帰還の夕方、宜野湾市では緊急抗議集会が開かれた。この集会で、那覇市在住のライター知念ウシさん(38)は、米軍が沖縄本島に上陸した六十年前と同じ日に帰還した米軍の「侵略者」としての振る舞いに憤慨した。そして壇上において英語で声を張り上げた」と沖縄タイムス 4/2  


 自分は「英雄として…」に対し「ヒーローではない…」と言葉を返す気はない。彼らが「英雄であるか」の判断は保留したい。歴史的事実を話したい。 

 戦争は長い間ロマンだった。賛美の対象だった。『戦争は悲劇そのものだ』、確かにそうとも言える。しかし、だからと言って否定すべき醜悪の対象ではなかった。このことはホメーロス以来の文学が実証している。 ギリシア以来、否、それ以前から近代に至るまで、文学の世界だけでなく戦争は様々な『英雄物語や美談』を生み出して来た。最も、それは20世紀初頭ぐらいまでである。第一次世界対戦の前後から人々の意識は変化しはじめた。 

 だが人間の意識は簡単に変化ものではない。ホメーロス以来の戦争のロマンは、革命戦争であるとか解放戦争であるとかに姿を変えた。ヘリ帰還への抗議集会に象徴される沖縄県の「島ぐるみ闘争」も一種の解放戦争であろう。 現代において戦争はロマンの資格を失った。だが革命乃至は解放はまだロマンであるらしく、人々はそれに夢を託し得るし、それを賛美しているのである。毛沢東の70年代初頭、いかに多くの日本の若者が、ジョン・レノンが「革命を賛美」したのである。レノンには「レボリューション(革命)」と題する曲が二曲もあるのではないか。 そしてビートルズ解散後、その革命への思いは「戦争へのロマンには反対」という形で行われて来た。この種の闘争への憧れは今も変わらない。「お前たちはヒーローではない。イラクの侵略者であり、沖縄の侵略者だ」とする解放へのロマンは脈々と、戦争のロマンの衣装替え後の姿としてのロマンなのであろう。  

 だが、しかし、社会にはその種の「ロマン」とは一切無縁な人も存在する。本人の意思としては…。幕末の会津に、「日本一の学生」と呼ばれたサムライがいた。会津藩士・秋月悌次郎である。公用方として京で活躍する秋月は薩摩と結び長州排除に成功した人物である。生涯刀を抜かなかった文官である。朝敵とされた会津を救うため、秋月は左遷の地より復帰、戊辰戦争の苦難が始まる。ラフカディオ・ハーンに「神のような人」と呼ばれたサムライを描いた1200枚の長編!  


 第24回新田次郎文学賞(新田次郎記念会主催)の選考会が4月8日開かれた。中村彰彦さんの「落花は枝に還らずとも――会津藩士・秋月悌次郎」(上下、中央公論新社) が選ばれた。賞金100万円。授賞式は5月31日午後6時から、東京・丸の内の東京会館で行われる。


  〔中村 彰彦〕

 1949年、栃木県生まれ。 東北大学文学部卒業、出版社勤務を経て文筆活動に専念。

87年、『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞、

93年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞、

94年、『二つの山河』で第111回直木賞受賞  


 秋月は会津藩の文官として、桜田門外の変の後始末、薩会同盟の立役者として禁門の変に関わるという、幕末という過酷な時代を生き抜きながら、その行動に濁りや先走った才気は見られない人である。赤誠を持って事に当たる、その人格は早くから京都で知られ、それ故に会津の代表として信頼され、重要な局面の藩外交に関わることになる悌次郎の為人を本書は丁寧に描いている。 歴史の裏方としてその人格をかいま見せた悌次郎…だが、時代の荒波が会津藩に迫ろうとする中で蝦夷地に左遷される。

 その間に薩長同盟の成立、大政奉還、と時代は急展開し、薩長はもちろんのこと、徳川慶喜からも見捨てられて朝敵とされた形になった会津藩。悌次郎は会津藩を救おうと必死の努力を続けるが、心血を注いだ嘆願書も意味を持たず、戦火は会津若松城下まで及ぶ。官軍相手の開城交渉、そして旧知の長州藩士への謹慎中の嘆願と悌次郎の努力は続く。その最中に詠んだのが、北越潜行の詩であり、彼の苦悩が焼き付けられている。 その後、預かりの身をへて赦免され、維新後は官吏を経て熊本にある五校の教師となる。 この時、同僚となったラフカディオ・ハーンは、悌次郎のことを神様のような人だ、側にいるだけで暖かくなる、と最大級の表現で書き残している。このように、赤誠で維新の苦難に立ち向かった悌次郎の人格は、ハーンを始めとする同僚や生徒達に深い感銘を与えている。修学旅行の際に老齢に達した悌次郎が生徒達の道行きを助けるために自ら草を刈って泥濘に蒔いたことや、薩会同盟当時の旧知の高崎が訊ねてきた日、旧交を温めて予習が出来ず、次の日の授業にその理由を述べて授業を行わなかったなどという教師時代の幾つかの逸話も彼の人となりを示しているだろう。 幕末の陰謀に向かなかった秋月悌次郎という人物の小説…この本は、反戦平和なる美名に隠れ、単に闘争に明け暮れる人々の心の浅ましさを思い起こしてくれもする。

新田次郎文学賞について

新田次郎文学賞受賞作紹介

第0024回 平成17年度  

  中村彰彦   落花は枝に還らずとも-会津藩士・秋月 上 /中央公論新社  

  中村彰彦   落花は枝に還らずとも-会津藩士・秋月 下 /中央公論新社

第0023回 平成16年度  

  東郷隆   狙うて候 /実業之日本社

第0022回 平成15年度  

  津野海太郎   滑稽な巨人 /平凡社

第0021回 平成14年度  

  佐々木譲   武揚伝 上 /中央公論新社  

  佐々木譲   武揚伝 下 /中央公論新社

第0020回 平成13年度  

  杉山正樹   寺山修司・遊戯の人 /新潮社

第0019回 平成12年度  

  熊谷達也   漂白の牙 /集英社   酒見賢一   周公旦 /文藝春秋

第0018回 平成11年度  

  大村彦次郎   文壇栄華物語 /筑摩書房

第0017回 平成10年度  

  山崎光夫   薮の中の家 芥川自死の謎を解く /文芸春秋

第0016回 平成9年度  

  吉川潮   江戸前の男 春風亭柳朝一代記 /新潮社

第0015回 平成8年度  

  谷甲州   短編集「白き嶺の男」 /集英社

第0014回 平成7年度  

  西木正明   夢幻の山旅 /中央公論社

第0013回 平成6年度  

  岩橋邦枝   評伝 長谷川時雨 /筑摩書房

第0012回 平成5年度  

  半藤一利   漱石先生ぞな、もし /文藝春秋  

  池宮彰一郎   四十七人の刺客 /新潮社  

  もりたなるお   山を貫く /文藝春秋

第0011回 平成4年度  

  大島昌宏   九頭竜川 /新人物往来社  

  高橋揆一郎   友子 /河出書房新社

第0010回 平成3年度  

  宮城谷昌光   天空の舟 /海越出版社

第0009回 平成2年度  

  鎌田慧   反骨-鈴木東民の生涯 /講談社  

  佐江衆一   北の海明け /新潮社  

  早坂暁   華日記-昭和いけ花戦国史 /新潮社

第0008回 平成元年度  

  入江曜子   我が名はエリザベス /筑摩書房

第0007回 昭和63年度  

  海老沢泰久   FI地上の夢 /朝日新聞社  

  中野孝次   ハラスのいた日々 /文藝春秋

第0006回 昭和62年度  

  長部日出雄   見知らぬ戦場 /文藝春秋

第0005回 昭和61年度  

  岡松和夫   異郷の歌 /文芸春秋

第0004回 昭和60年度  

  角田房子   責任 /新潮社  

  佐藤雅美   大君の通貨 /講談社

第0003回 昭和59年度  

  辺見じゅん   男たちの大和 上 /角川書店  

  辺見じゅん   男たちの大和 下 /角川書店

第0002回 昭和58年度  

  若城希伊子   小さな島の明治維新-ドミンゴ松次郎の旅- /新潮社

第0001回 昭和57年度  

 沢木耕太郎   一瞬の夏 上 /新潮社  

 沢木耕太郎   一瞬の夏 下 /新潮社