対内言語と、対外言語と! -67ページ目
<< 前のページへ最新 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67

『ロボット』(原題『RUR』) カレン・チャべック:人間は無為徒食になるのか☆1☆

著者: 千野 栄一, カレル・チャペック, Karel Capek
タイトル: ロボット
著者: Karel Capek, Claudia Novack, Ivan Klima
タイトル: R.U.R. (Rossum`s Universal Robots) (Penguin Classics)
著者: Karel Capek, Paul Selver, Nigel Playfair
タイトル: Rossum`s Universal Robots (Dover Thrift Editions)

Karel &#268;apek Karel Čapek


 ロボットという言葉はこの戯曲で生まれて世界中に広まった。
 1917年にチャべックは最初の単独の著書である哲学的幻想小説集《受難像》を出版した。
 その三年後、戯曲《ロボット》(原題《RUR(エル・ウー・エル)》)を発表した。この作品によってチャべックは、チェコSFの創始者となった。同時に、世界的にその名を知られるようになった。この作品の中でチャべックが初めて使った「ロボット」という新造語は、その後世界中に広まった。そしてこの「ロボット」の概念は、世界のSFに影響を与えることになるのである。
 但し、彼が思い描いたロボットは、現在の純粋な機械としてのロボットではない。生理学者によって試験管の中で科学的に作り出された「生物としての人造人間」である。その点では「試験管ベビー」「遺伝子操作」「クローン人間」といった現代の”今の問題”と関係している。
   
 ところでカレル・チャべックの故郷「チェコ」には、ユダヤ人の人造人間伝説がある。16~17世紀プラハのユダヤ教の律法師(ラビ)レーヴ師が、秘術によって土から作って命を与えた「ゴーレム」伝説である。
 ゴーレムは、召使としてラビに仕えていたが、ラビの不注意から狂って暴れ出し、破壊行為を始める。ラビはすぐにゴーレムの動きを止めた。二度と生き返らせなかった、と言う。
 このゴーレム像は、しかし、世紀を超えて復活する。第一次世界大戦(1914~18年)以後、「もはや止められないゴーレム」「世界を破壊するゴーレム」という不吉なイメージに変容してだ。「人類を滅ぼす」チャベックのロボットも、このゴーレム像の系譜に繋がる。

《ロボット》(21年初演)の粗筋は次の通りである。
 天才的な生理学者が、原形質なような生きた物質を作り出すことに成功し、そこから人造犬を、次いで人造人間を作った。
 だが、その甥の技師は、人間から余計なものを取り去った労働機械のような生物であるロボットを作る。それを商品として大量生産し始め会社の社長ドミンのところへ、若い女性へレナが訪ねて来る。ここからこの戯曲は始まる。
 十年後、労働から解放されて無為徒食の存在となった人類を、ロボットは憎み始める。ドミンの妻となったヘレナは、人間を退化させて生産能力を喪失させたロボットの製造を止めさせようとして、生命製造の秘密を記した文書を燃やす。
 ロボットは反乱を起こして、一人を残して人類を皆殺しにするが、生命製造の秘密が分からないために、ロボットも自らを再生産することができずに、何れ滅びる運命となる。
 だが、一組のロボットの間に愛が生まれ、彼らが新たな人類を生み出すところで、この戯曲は終わる。


 機械文明の発達がはたして人間に幸福をもたらすか否かを問うた予言的(?)作品である、と云われている。

 この作品で彼は、「純粋」な科学的発見・発明も、社会・経済・政治の流れと無縁ではあり得ず、否応なしにそれに巻き込まれて「利用」ないしは「悪用」されてしまうことをも描いている。
 そして人間の作り出したものが人間自身の手を離れて制御不能になり、最終的には人類を滅ぼす可能性をも示している。
 これは彼の他のSF作品である《絶対子工場》・1921年、《クラカチット》・24年、《山椒魚戦争》・36年にも共通するモチーフである。

 ところで、《ロボット》において、人類が滅びる原因は、単に文明の物理的・物質的側面にだけにあるのではないと訴えている。精神的な側面にこそ、人類が滅びる原因があるのだと。
 確かに、人間は生産のための労働の他に、読書をする・スポーツを楽しむ・音楽を聴く等の余暇活動を行なっている。だが、これは「生産」という観点からは「無駄」なものであろう。この最も人間らしい部分である「無駄」を除去した「ロボット」は、効率的で完全な生産機械と化した、「NEET問題は労働意欲問題」だとばかりす日本の政治家の無意識の愛玩物のような「グロテスクな擬似人間」である。
 この擬似人間が世界中に蔓延ることによって、本来の人間の存在そのものが「無駄」で不必要になってしまう。一方人間は、「グロテスクな擬似人間」にあらゆる仕事を押し付けて労働を忘れることによって無為徒食の存在と化してゆく。この点では、「働かずも者食うべからず」の原則を守らず全国一律サービスを主張する「郵政民営化反対」の政治家の同じであろう。「働く者は賃金が高く、働かない者は賃金が低い」経済原則を無視するだけでなく、その働きによってよって得た賃金を「働かない者」に分配すると称して「税率を操作」し、その「計算システムを複雑怪奇」にすることによって、「自己の仲間」には「働かずに賃金を得られる」職場を創出し、「働かず者大いに贅沢すべし」を実現させ、自らは「無為徒食の存在」と化し、政治不信や官僚不信を招いている。そういう「労働」を知らない者達であるからこそ、尚更「すべてを労働意欲の問題」とすることで自らの「隠れ蓑」とするわけであろう。
 
 チャベックの作品では、これらの事情から、人間は子供を生む能力を失ってしまうのである。文明の発展によって逆に退化して、子孫を残す能力を失った人類は、直接ロボットによって、先の例で言えば「政治家」や「官僚役人」によって滅ぼされずとも、自ら絶滅する運命にあったわけである。これに眼をつけたのが元首相・森さんかも知れない。もっとも少子化問題も彼等無為徒食であろうとする政治家や官僚・役人等が生み出した問題であると云え、残念ながら「森さんの出番」でもなさそうである。

 ところで、この作品での『人間はロボットにあらゆる仕事を押し付けて労働を忘れることによって、無為徒食の存在に化していく」と警告しているこの場面は、しかし、それは西欧人の「問題意識」であって、日本人とは無縁だろう。それについては、また次の機会に!


手元に手繰り寄せる猿かな:【パレスチナから来た少女】大石 直紀

著者: 大石 直紀
タイトル: パレスチナから来た少女


 パレスチナ難民キャンプで起こった虐殺事件にかくされた謎とは。私怨の女テロリストが日本の地を踏んだとき、中東を巡る妖しく危険なゲームがスタートする。第2回日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作。


 日本人は「こういうもの」好きです。
 大分前、テレビ・ドラマで中山千夏出演の題名は忘れてしまったが、「沖縄から来たお手伝いさん」「北海道から来たお手伝いさん」が彼女の役柄……地方から中央へ、中央での沖縄・アイヌ人への偏見と戦いながら……そして、「私達にも悪いところがあったわね~」「分かってくれたら良いのよ。同じ日本人よ~」オヨヨヨヨ~の「さあ~泣いて~」と言わんばかりの三流ドラマ。
『パレスチナから来た少女』もその「何処其処から来た少女」の祖型を外れてはいない。この本は『パレスチナ 難民キャンプの瓦礫の中で』(広河隆一 草思社 1998)のルポルタージュを小説化したものである。(広河隆一には後に『パレスチナ 瓦礫の中のこどもたち』(徳間文庫,2001)という本も著している)
 大石氏は”あとがき”で次のように語っている。
『……作中に出てくるベイルートでの立花俊也(主人公)の動きは、フォト・ジャーナリスト広河隆一氏をモデルに描きました(略)』
 
 二人とも何かを伝えようとする気持ちがあるのはわかる。しかし、そうであるなら事実認定のみはきちんと行なってほしい。特に歴史的認識不足は否めない。
 まず冒頭で大石氏は次のようにパレスチナ人を規定している。
『本文中に出て来る「アラブ人」とは、中東から北アフリカ一帯で暮らしている「アラブ民族」のことであり、「パレスチナ人(あるいはパレスチナアラブ人)」とは「パレスチナ」と呼ばれている地域に自分のルーツを持っているアラブ人のことを指します』と。大いなる間違いである。アラブ人への指摘は次の機会に語ることにする。

 ルーツとは「血統証」的に解するが、彼等「パレスチナ人」の血統証的系譜を追って見よう。古代「パレスチナ」と呼ばれている地域に住んでいたのは、ギリシアの北方から侵入して来た民族「ペリシテ人」である。彼らの本来の居住地はどこだったのか。現在でも明らかにはされたはいない。唯人種的には「白人」であるとされている。
 彼等はペリシテ人からギリシアに変わり、次いでローマ人となり、次にビザンティンのキリスト教徒に変わって、今ではイスラム教徒アラブ人である人もいる。
 シナイ半島の聖カタリナ僧院と関係を持つベドウィンはアラブ人ではない。彼らは血統証的にはルーマニア人である。ユスティニヌス帝が聖カタリナ僧院を建てるとき、建設用奴隷として多くのルーマニア人をこの地に送った。そして建設終了後、彼らは僧院の契約牧畜民となり、パンの支給を受ける代わりに畜産品を僧院に提供しつつ、同時に労務も提供していた。
 やがてイスラムの侵入があったが、この僧院の中だけは大海原の孤島の”ギリシア正教圏”であり得た。しかし、周囲はことごとくイスラム化しアラブ化し、このルーマニア人たちもその中に埋没して、今では分からなくなっている。
 
 かつて全パレスチナ人を直接間接に支配していたペリシテ人は、現在存在しない。彼らは跡形も無くこの地上から消えてしまった。『聖書考古学』(新生堂版)に「テガ・ガワラのパレスチナ人」という言葉が出て来る。この言葉の意味は「パレスティネンシス」の訳語である。つまり、ネアンデルタール人、北京原人と同じ意味で「パレスチナ原人」という意味である。この言葉をその原意通りに使えば「ペリシテの地に住む人」乃至は「シリア・パレスチナ州に住む人」の意味である。 
 従って大石氏の語る『「パレスチナ人(あるいはパレスチナアラブ人)」とは「パレスチナ」と呼ばれている地域に自分のルーツを持っているアラブ人のことを指します
』とされる民族は、過去にも現在にも存在したことはない。
 つまり氏の述べるような「パレスチナ人」は存在したことなどないことである。存在したのは、三千年前に、大石の述べる『「「パレスチナ」と呼ばれている地域』の南を占拠したペリシテ人なる民族がいて、パレスチナ人とはそれと関連する名だということだけである。しかも大石氏使う「パレスチナ人」なる言葉には「ペリシテ人の血統証的子孫」という意味はなく、そういう一つの歴史をもつ言葉として、この言葉を把握しているのでもない。
 日本人であるならば、聖書の民ではないから、それで通用するだろう、しかし聖書の民、ヨーロッパ人には通用しないだろう。彼らにとって、ユダヤ人が存在するが如くパレスチナ人も存在する。しかしそれは”血統証”的な意味ではない。ましてや地域的な意味としてでもない。存在するのは「パレスチナ人」という意識である。その意識はまだ百年にも満たない。正確に言えば、その意識とその語の現代的意味はだが。しかしそれは存在する。三千年近く変わらずに存続しているのである。
 この意識を無視、乃至は”意識できない”のであれば、それは始めから何の意味もない。何の解決も招来しない。残念ながら、『……パレスチナはじめ、中東はいまだに混沌とした状況の中にあります。一日も早く中東に本当の平和が訪れること。本書の主人公の一人である沙也と同じように、僕もそのことを願わずにはいられません』(本書・あとがき)とする願いは、永遠に叶えられず、その願いは具体的な行動への提案材料ともならない。

 その意味で「中東を見る」一つの資料としては「下らない」ものの一つである。しかし、それは小説への評価とは別である。特に、閉鎖的「仲間内文学」で暮らしていける文壇とそれが相手する読者向けの物語としては、十分に及第点に達している作品ではあろう。


 この本には語りたい箇所が幾つもある。それは勿論作品への感動とは異なる。それはまたの機会に!


受賞者略歴:

  1958年4月27日静岡県島田市生まれ。
 関西大学文学部史学科卒業。
 大学卒業後、大阪にてフリーアナウンサー。その後、北海道の牧場にて牧夫。塾講師、冷凍庫作業員など、様々な職業を転々としながら、延べ5年半にわたり、世界約50カ国を旅する。1993年~1994年にかけて、スウェーデン国立ヨテボリ大学日本語補助教員。
 現在、フリーライター。

 選考委員: 内田康夫、北方謙三、西村京太郎、森村誠一



奈良県明日香村の高松塚古墳の壁画(国宝)が劣化

                                   高松古墳 石室西壁 四人の女子像


 奈良県明日香村にある高松塚古墳の石室西壁の4人の女子像。同じ西壁の入り口側にも4人の男子像が描かれている。東西の壁に男女4人ずつ合計16人の人物像があっる。服装や、さしば(左)と如意(中央)などの持ち物類は、当時の高句麗や唐の古墳壁画と類似するところも多い。7世紀末~8世紀初頭。


 小学生拉致殺人事件、騒音オバサン、車の騒音による(軟派目的の若者集結が原因らしい)近隣迷惑と、犯罪関連の問題に事欠かない「古都・奈良」だが、古くて新しい問題も起っている。奈良県明日香村の高松塚古墳の壁画(国宝)が劣化しているのである。
 文化庁が、壁画の描かれた石室を解体して古墳の外へ運び出し、修復・保存する方法を検討していることがわかった。72年に発見されて以降、カビの発生などが抑えられず急激に劣化が進んでおり、現地での保存は困難と判断。絵の下地のしっくいの状態が悪く、同村のキトラ古墳の壁画のように引きはがすのも難しいという。ただ、壁画を傷めずに石室を解体・搬出できるかどうかの議論はこれからで、専門家の間には慎重論もある。
 同庁の国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策検討会の作業部会が19日に開かれ、現地での保存を続ける案も含めて、課題などを探る具体的な議論を進める。その結果を5月にも開かれる同検討会に報告する予定だ。同検討会の複数の関係者によると、これまでの議論で現地保存については、「石室内の湿度や温度を管理してもカビの発生は防げない」「狭い石室内でのカビ対策は、殺菌用アルコールが充満するなどして危険」などの難点が指摘された。奈良文化財研究所の専門家も「このままでは劣化をくい止めるのは難しい」と話す。
 石室内のカビは週1回の定期点検でも度々確認されているほか、今月12日の点検では、生きたワラジムシやムカデなどの死骸(しがい)が見つかっている。昨年10月から実施した墳丘の発掘調査では、過去の大地震でできたとみられる無数の地割れが見つかっており、新たな地震などで石室が損傷する恐れもあるという。
 一方、壁画の下地のしっくいは、現地保存するため一部が樹脂で固められている。他の部分は逆にもろくなっており、キトラ古墳で進めているような引きはがしは極めて難しいとみている。ただ、同検討会のメンバーの中には、石室を解体する際に壊れてしまう危険性や、遺跡は現地保存する原則に反するとの指摘もある。外部へ運び出した後の保存方法についても具体案はない。

 



『人間の歴史』 ミハイル・イリン、E. セガール著

        人間の歴史―中越典子  

著者: M. イリーン, E. セガール, 袋 一平
              山本七平 訳:岩崎書店
 タイトル: 人間の歴史〈1〉
 人間の祖先は力の弱い生きものだったが、手を働かせて道具を使うことを発見し、協力して働くことを覚えて以来、今日のような「巨人」に発展してきた。人間のいく千万年のたたかいを描いた壮大な物語。この巻は、原始社会から奴隷制の発生まで。
著者: M. イリーン, E. セガール, 袋 一平
タイトル: 人間の歴史〈2〉
 力の弱い生きものだった人間が、どのようにして今日のような大地を支配する「巨人」に発展してきたのかを描く壮大な物語。この巻では、古代エジプト、ギリシア・ローマを中心に、どれい制の発生から崩壊に至るまでの歴史をダイナミックに語る。
著者: M. イリーン, E. セガール, 袋 一平
タイトル: 人間の歴史〈3〉
 力の弱い生きものだった人間が、どのようにして自然とたたかい、世界を変えながら、今日のような「巨人」に発展してきたのか―「3」では、封建制度の台頭から、新大陸の発見と争い、さらにルネサンスへと、試行錯誤を重ねながら人間が科学的知識・思考を身につけてゆく過程を描く。

 著者はマルクス主義者の啓蒙歴史家である。
 この本は「労働は神聖」であると説いている。それが「人間の秩序の基礎」だと言っている。この本は日本でロング・ベストセラーになった。この本の何が良かったのだろう。それは『労働は神聖』であるとする言葉が良かったのである。これを「いいなあ」と思える心理の背後には、徳川時代からの隠れた伝統の呪縛があった。日本人はそれによってこの書物に共感を感じ、買ったのだ。
 徳川時代に、すでに石田梅岩によって日本人は。人は「労働により食を得る」という形であり人間にはそれ以外のことはできず、草を食うことも血を吸うこともできない。従って人間の形は、「馬が草を食って生きるような形に生まれていて、蚤は血を吸って生きている形に生まれて」とする、「人間の形もまたその心を規定している」とする「形ハ直ニ心ナリト知ルベシ」という思想を持ち、それを社会的鍛錬で育てつつ明治を迎えた。
 梅岩の言う「心」を現代文で言えば、「本能+思考=行動原理=心」といった意味である。その形が、その生物の「心」を規定していて、それから外れることはない。馬に血を吸えと言っても、蚤に草を食えと言っても無理であるように、それぞれが「形」に従って息、そのように生きることがその動物社会の秩序を形成している。人間もこれと同じであると梅岩は考えたわけである。そしてそれが町人思想として現代日本人の原型となったのである。
 確かに、「働いて食を得れない」人間は犯罪者であろう。人間社会は貨幣社会である。その貨幣によって「食=生活」を成立させる。そうあって初めて人の物は人の物、我が物は我が物とする区別も生まれる。金銭を得られない者が、その「自己の生活を成立させる」ために「行き倒れ」になるか「無銭飲食を行なうか」、盗人・泥棒・殺人・詐欺等によってしか「食(生活)を成り立たせる」他あるまい。
 今ニートなる存在が問題となっている。何が問題か?労働力問題、つまり経済的損益問題としてニートを捉えている。となれば、その解決法は「強制労働」と似た発想しか生まれない。誰のための「労働なのか」という最も大切な視点が抜け落ちている議論が横行しているようである。
 ここで大切なのは、梅岩は、「しかし、人間の秩序は動物のそれのように”働く”だけで形成されるものではない」ともしている。「もしそうなら動物のように”働く”だけ、つまり社会主義的強制労働」のみでも、他は「労働者国民は何も考えなくても」秩序ができなければならない。これが日本の政治家の発想で、「労働力」も視点のみで考えれば「動物社会学的」に解決できるとしているのである。
 しかし梅岩はそうではないと言っている。「孟子曰、『形色天性也。唯聖人、然後可以践形』。形を践むとは、五輪の道を明らかに行な云。形を践で行ふこと不能、小人なり。畜類鳥類は私心なし。反て形を践。皆自然の理なり。聖人は是を知り玉ふ」
 動物は私心がないから、形通りに生きて行くことができる。これが自然の理である。ところが小人は形通りに生きて行くことができない。聖人はこれを知ってる人だと言う。確かにその通りだろう。「働けば人間」であるとし、この場合、働いてえる賃金の多寡は関係なく、その人間が「働かざる者人であらず」とし、その人間の代物を奪い取るとなれば、本末転倒、もはやその人を人間と呼ぶ人はいないだろうし、その社会を人間社会とする人もいないだろう。

 

 Михаил Ильин (Mikhail Ilin) 1894~1953。
 ソビエトのマルクス主義者の啓蒙歴史家。
 本名イリヤ・ヤーコヴレウィッチ・マルシャーク(Илья Яковлевич Маршак)。
『森は生きてゐる』のサムイル・マルシャークは兄。
 ペテルブルグ大學理數學科に入學、クラスノダール工業大學化學科を經てレニングラード工藝大學卒。ネフスキー・ステアリン工場實驗室主任を務めるが健康を害して著述業に轉じ、『燈火の歴史』(原題「机の上の太陽」1927)、『書物の歴史』(原題「白地に黒」1928)などを著す。1930年の『偉大な計畫の話』(邦譯、イーリン著・ソヴェートの友の會編・安田德太郎譯『五ヶ年計畫の話 新ロシア入門』鐡塔書院、1931.10)がゴーリキーやロマン・ロランの激賞を受け、廣く國外にも名を知られた。多くの兒童向け科學物語を書き、代表作に夫人セガールの協力で書きあげた『人間の歴史』(原題「人間はいかにして巨人となったか」1940)がある。

【源氏物語絵巻】 ξ復元され、公開されるξ

                                            
   著者: 大和 和紀, 植田 紳爾, 渡辺 充俊, 篠田 昇, 植木 由紀子
                                                 タイトル: 宝塚写真絵巻 源氏物語「あさきゆめみし」

  恋物語の原点ともいえる華麗な源氏物語、映像の世界大和和紀のcomics『あさきゆめみし』映像化光源氏を宝塚の愛華みれが演じる写真集タカラジェンヌ&ハイビジョン映像による愛と夢の王朝ロマン〔目次〕許されぬ愛/束の間の恋/生涯の愛/花無常/愛の闇/思い渦巻く/月盗人/育む愛誇り高き恋/誕生と死、他。  


 徳川美術館(名古屋市東区) が所蔵する国宝「 源氏物語絵巻」の15場面すべての復元模写が完了し、16日、同美術館で一般公開 が始まった。5月22日まで。  

 

 玉上琢弥は1950年代に『物語音読論 』を提唱した。「女房がテクストを音読し、姫君が絵を眺めつつそれを聞く という形で、王朝文学は享受された」とする説である。この説は、提唱当初から、事 実としては疑わしいという批判がある。にも拘らず、その批評的インパクトへの評価 は近年高まりつつある。 この論は、朗読者を登場させることで、筆記者に よる「テクストの独占的統括」を疑う視点を提示し、さらに絵という「モノ」と、物 語研究がリンクするという回路を開いたためだ。 前世紀末、普遍的価値基 準を日本人は喪失したと言われている。文化のトレンドもジャンルを問わず「全体を 統括する視点の否定」と「微細な”モノ”の執着」へと移行した。この流れは芸術と 呼ばれる全てに及んだ。 


 冷戦構造の崩壊に伴う「普遍的イデオロギー」の 死や、コンピューター社会の発展による「公」と「私」の関係の変質が、こうした状 況を齎したとされている。だがそれは、日本的伝統思想への保守回帰に対する状況説 明でもある。 自己の尺度と他者の尺度の区別を認めず、互いの尺度が一致 することを確認した上で「互いに縛られ協力しあう」とい血縁地縁を基礎とした”自 然発生的な村落共同体”、その”共同体の論理”のみを優先させる。そして、その土 地の論理に添った物語が女性によって創出され、継承されて行く。そこに事実は存在 しない。土地を維持させる奇怪な伝説のみが誕生する。 


 男と女の物語にも 、事実などというものは存在しない。あるのは「自己の情を維持させる」物語である 。現代の姫君達は、そういう絵を、メディアなどによって「映像乃至は、言葉による 映像の描写の連続による映像」を、与えられつつ、眺めつつ、それを聞きつつ「情念 に満ちた」物語を案出し、行動乃至は記していく。作家はそれをスケッチする。  現在の日本で女性作家が男性作家より強い(!?)と言われるのは、こうい うことにも一因がるのだろう。

国際化への常識論:【超常識の方法】小室直樹

            
           超常識の方法 西田ひかり
著者: 小室 直樹
タイトル: 超常識の方法―頭のゴミが取れる数学発想の使い方

 日本の社会学者の大半が「使い物にならない学者」であり「浮世離れした訓詁学」者であるのに対して、小室氏は隔絶した位置にいる。テレビでの過激な発言が災いとなりマスコミからは去っていった。しかし元々「学者」である氏にとって、コマーシャルニズムの世界に顔を出すか出さないかはどうでも良いことだろう。
 この本は、氏の本職、数学者としての顔を遺憾なく見せた大衆的名著である。自分などの高等数学など手に負えない人間にも、実に容易に「数学の楽しみ」を教えてくれる。最もここには「暗算」はない。あるのは「数学」である。「数式」はない。あるのは「社会を見る数学」である。
 氏は数学では「存在しないものに関しては何を行っても正しい」のだから、「存在問題」の解決が第一としている。「平和」なる概念ないしは定義は存在しない。従って戦争に対して「平和主義者」としてと言った行動や発言などの空想による批判非難は、無意味であることに気づく。「平和」なる概念・定義などこの世のどこにも存在しないし、またかつて存在したこともなかった。つまり、戦争というシステムは存在し、戦争の英雄も存在するのだが、それに対する「平和」なるものは存在しない。従って、どれほどの出鱈目な行動や発言を行なっても、論理的にその非を指摘できないのである。
 本書は、いかに問題の確信を把握するか。それによっていかに実り或る結果を得るための論理を進めれば良いのか。それらを説得力豊かに私達に教えてくれる。

”ちょっとだけ”の創造性!:【ポピュラー音楽をつくる】 ジェイソン・トインビー

著者: ジェイソン・トインビー, 安田 昌弘
タイトル: ポピュラー音楽をつくる―ミュージシャン・創造性・制度
  ポップス界では毎日が新作ラッシュである。アメリカを発信基地とする宣伝や売り込みは、ますます派手派手になっている。ショップは多様で細分化されたポップス音楽の大きなコーナーがフロアー占めている。そこには若者を中心に多くの人が群がっている。地球を始めて訪れる宇宙人にですら、その音楽が地球の消費社会代表的ジャンルであることがわかる賑わいを見せている。
 この産業は巨大である。そのことは、ファイル交換やCDのコピー等の横行に歯止めを掛け様と音楽著作権が議論の的になっていることでも知れる。
 だが案外、このポピュラー音楽産業の実態は知られているとは言い難い。著作権と関係するのだが、それでは音楽創造の現場では、「過去の曲の剽窃紛い」のことをどう思っているのか、聴き手はこの音楽ジャンルに何を求めているのだろうか。
 本書【ポピュラー音楽をつくる】では、ポピュラー音楽の様々な美学や様式の変遷を緻密に分析している。そうして、これら具体的な問題の考察を、社会学的に追求している。
 実際、ポップ音楽は「剽窃とのギリギリ境界で成立する音楽」であり、その創造の場に踏み込んだ論考などは、この音楽ジャンルを研究する立場の人には、深い関心を呼ぶはずである。勿論、愛好者にも、この産業に関わる人にもである。
 私は文字通り「ロック世代」である。ビートルズが世界に登場した年に近く生まれた。だからポップ音楽は空気のようなものである。「ポップ音楽とは何ぞや」と意識したことはない。年を経て、ポップやロック音楽以外のジャンルも聴く様になって、はじめて、クラシックとロック音楽とは、どこがそう違い、またそれを成立させている社会の違いは何なのかに関心を持つようになった。しかし適当な研究書は今まで無かった。
 ロックの時代といえば「若者文化が初登場した時代」であり、しかもその「若者文化が世界をリード」し始めた時代の音楽として、無批判に参照するに止まっていた。
 だがこの書では、その時代を「特異数十年」と見なしている。1930年にスィング・ジャズと現在のクラブ・シーンに通低する《踊る身体》に着目するなど、様々な視点が提出されている。
 またロック、ジャズ、ブラックミュージック、ダンス音楽、ワールドミュージック、クラブミュージック、ハードコア、アヴァン・ギャルド他、其々のジャンルの愛好家に新たな発見を約束いsてくれるであろう本書である。最新のハウス、テクノ、クラブ・シーンへの考察も極めて秀逸であり、「ターンテーブルでの競演」を「少しだけ創造する」と評していることには肯ける。
 最も「創造」に関してはジャズもクラシック音楽と比較されて、「リズムの繰り返しで創造性の欠片もない」と酷評する評論家もいる。だが、そのことは別にそおいうジャンルの音楽が「聴くに耐えない」ということを意味するものではないだろう。私は年甲斐もなく”エムネム”が好きで、というよりラッパーで唯一好んで聴くミュージシャンが彼である。「どこがいい」と問われても、そのことを真剣に考えたことはないので、「ただ感覚が合う」としか答えようがないが。その彼のは【8Mile】という主演映画がある。その映画でのシーンで、彼が歌う後ろでのターンテーブル操作を見てると、「やはり少しだけの創造」であることを実感する。日常の不満や出来事、その中から生まれてくる絶望や希望を、即興で人に伝える。ロッシーニ(イタリアのオペラ作曲家)のようの楽屋裏に缶詰にされて、「脳髄を絞って創造する」生活、それを観衆とは、ポップのミュージシャンやそれの観衆とは異なることは明らかである。
 この本は、そういうポップ新世紀における音楽の可能性と危機を論じた必読書である。尚、巻末には訳者によって著書インタビュー「ポップの新しい世紀に向けて」が付されている。 

恋愛04 恋愛は危険を伴侶とするロマン

            恭子


■前回までの記事:

恋愛01 恋愛とは不思議なもの……!

恋愛02 子供の頃に味わった美味しい果物の味

恋愛03 二、三年の放蕩で失われる美味しい果物への味覚


最初にロマン風の詩を紹介しましょう。

『Music』

Music, When soft voices die, Vibrates in the memory―― Odours, when sweet violets sicken,

Live within the sense they quicken. Rose leaves, when the rose is dead,

Are heaped for the beloved's bed; And so thy thoughts, when thou art gone,

Love itself shall slumber on. ―――

『音 楽』

音楽は、やさしい声が嗄れてしまっても、 記憶の中に響いている――

香りは、かぐわしいスミレがしぼんでしまっても、 活気づいた感覚の中で生きている。

バラの花びらは、バラが枯れてしまっても、 積み重ねて最愛の人の床になる。

だから君がいなくなっても 愛そのものがまどろむだろう。 ―――  


この詩はシェリーのものです。

危険な恋愛をした人間の格好な例として、このイギリスロマン派詩人、パーシー・B・シェリー(Percy. B. Shelley :1792~1822)がいます。

彼はサセックス生まれで、社会制度の矛盾を突いたり、革命思想を持ち、匿名 で出版物を出したり、大学を追放されたりと、自由を熱望し、ダイナミックな詩を数多く残しました。

私生活においてのシェリーは、妻子のあった21歳で16歳のメアリー(『フランケンシュタイン』の作者)と駆け落ち、後にシェリーの妻は投身自殺、彼自身も30歳で水死してしまいます。    


シェリーは放蕩に対して激しい嫌悪感を抱いていました。一方で、性格的に抑えがたい激しい恋愛感情を抱く人物でもあった。世故に長けた年長者は言うでしょう。


「放蕩への激しい嫌悪も、恋愛への激しい感情も、どちらも若い紳士を墜落させるに十二分なものだ」  


もし彼が極めて月並みに、十年ほど不道徳な放蕩三昧の生活をし、しかも最後に身分ある婦人と結婚していたら、友人たちにあれほどまでに不愉快な思いをさせることはなかったかもしれない。  


これは見当はずれな憶測でしょうか!



■参照サイト

・Percy Bysshe Shelley概説 "Set Phi"

パーシー・B・シェリー(P.B.Shelley)の詩と詩人紹介

メアリー・シェリー - Wikipedia

<< 前のページへ最新 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67