対内言語と、対外言語と! -66ページ目

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 赤川ミステリーの真髄 Φ 【三毛猫ホームズの推理】赤川次郎  

                    
                      著者: 赤川 次郎
                                  タイトル: 三毛猫ホームズの推理

 《我輩は猫である》で漱石は探偵を、この社会のある職業で最も唾棄すべきものとして語っている。

 猫はその探偵のような仕事をやっている。 

  漱石が言う探偵には二種類あった。

①その目的が既に罪悪の暴露にあるのだから、予め人を陥れようとする成心の上に成り立てられた職業である。

②自分はただ人間の研究者否人間の異常なる機関(からくり)が暗い闇夜に運転する有様を、驚嘆の念を以って眺めていたい。 

 ①が漱石の嫌っていた探偵の定義である。②の探偵は犯人を捕えることに関心を持っていない。これの関心は、犯罪の形式的な側面にしかない。従って犯罪者以上に善悪には無関心である。  

 

 ①の探偵の定義は《草枕》において次のように定義し直される。

『世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうし、いやな奴で埋まっている。元来何しに世の中へ面を曝しているんだか、解しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのを以って、さも名誉の如く心得ている。五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思っている。そうして人の前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えば尚更云う。よせと云えば、益々云う。分かったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。方針は人々勝手である。只ひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのを以て、こっちの方針とするばかりだ。そうなったら日本も運の尽きだろう』 

 人間は各々主義思想が異なる。それ以前に日本は八百万の神々の住む国である。自己の主義思想を押し付けようとして、つまり自己の基準を以て相手を支配しようとする日本は「私が生まれた神々の住む国ではない」「腐敗した世界」と歌った”鬼束ちひろ”の”月光”世界を、漱石は「人の臀にくっ付いて屁を数える人」と表現した。 

 これも一種の探偵であろう。

 この文章を読む度私は、宣教師や宗教勧誘者、平和団体、ユイマール意識の沖縄人(自己の尺度と他人の尺度は一致させねばならず、そのためには絶えず接触して、人間関係の濃密さを維持し、そのことによって互いに律し律せられることによって協力し合い、それの基準を地縁に置く)や、追跡者(ストーカー)等を思い起こす。   


  赤川次郎の作品でも「猫」が探偵役として登場する。 

 物語は、女子大生が売春のアルバイト中に殺されるという事件で始まる。 

 この事件に関わる事になった警視庁捜査一課の片山義太郎刑事は、「お嬢さん」と渾名されるほど頼りない性格である。上司の三田村警視は、彼を殺人本件ではなく、女子大内での売春組織の実態調査の方に派遣する。しかしそこでも殺人事件が発生してしまう。 

 現場となったプレハブ小屋は密室状態…被害者が残した愛犬と猫の協力を得て、片山は犯人たちの仕組んだトリックを解明した…かのに思えた。しかし女子大生殺しの方は未解決のまま、さらに犠牲者の数は増えて行った。  

 密室トリックあり、連続殺人のサスペンスあり…事件の内容もてんてこ盛り…だが、「お嬢さん」義太郎のラブロマンスや妹の不倫疑惑等など、人間ドラマとしての読みどころも多く盛り込まれている。  

 トリックの独創性も素晴らしいし、その謎の見せ方や情報提示も上手い。結末の意外性のために登場人物を最後まで使い切る潔さもある。  

 著者の赤川次郎は福岡県生まれ、日本機械学会に勤務する傍ら本格的に小説を書き始め、職場の仲間と同人誌を発行する。その後、75年頃から各種新人賞やシナリオ公募に投稿を始め、《非常のライセンス》のシナリオ募集で入選、75年10月に放映された。またこの頃《探偵物語》の原型作品が東宝シナリオ募集で佳作になっている。 76年、オール読物推理小説新人賞を《幽霊列車》で受賞、デビュー、翌77年《死者の学園祭》と《マリオネットの罠》を相次いで刊行、本格デビューした。 78年には「幽霊列車」を含む短編集《幽霊列車》や、今回紹介した三毛猫ホームズの第一長編《三毛猫ホームズの推理》、後に映画化され話題となった《セーラー服と機関銃》など五冊を上梓している。

 この頃から作品数は急増し、超売れっ子として現在も活動を続けていることは衆知のことである。 

 膨大作品数とヒット作を多く持つ作家には珍しく、賞とは無縁の作家である。新人賞以降では《悪妻に捧げるレクイエム》で角川小説賞を受賞した以外では《上役のいない月曜日》で直木賞候補になったぐらいである。記録には残らない。しかし記憶に残る作家の典型であるのだろう。


平和を為し得ない演劇人たち ∮ウチナンチュ∮

       一枚摺屋ー浜崎あゆ


 歴史を検証し未来に生かすことは大切である。これは何も歴史家による作業を意味しない。どういう職業であれ、その過去を知らずに現在を行ないえるわけではなく、また人は後ろ向きに前進する生き物であるので、将来どうしていけば良いのかという自答に答えるのは過去だけであろう。  


 沖縄人なる小数民族には「奇妙な人間」が多い。ここであえて少数民族沖縄人という言葉を使用したのは、自分は沖縄県民であり日本国民の一員であって、対本土という意識がないので、この意識ではない沖縄人として受け取ってもらいたい。 この沖縄人少数民族論はアメリカ人の説であり、統治の理屈に使用され、現在においても国連においてそれが論じられている。これによって得られるものは「保障」らいしきものであるようで、その「保障」欲しさに、この運動を熱心に行なっている大学なども存在している。奇怪な説でしかなく、自分は日本国民の一員として、また日本人としてのウルトラ・モラル(宗教)に拠って生きている。従って、これに反する者は、単にモラルを失っている者乃至は非常識であるだけの沖縄人なるものが、「同じ沖縄人として」などと、その反モラル・非常識を「怪力乱神を語る」ことによって、相手を打ち負かし、自らが出て行こうとするするのが、現在沖縄県の現状である。  これらのサイトやブログを批判するのではない。自分の言う少数民族沖縄人なるもの一般的感情として参照して貰えればありがたい。

 

沖縄タイムス 戦後60年平和ウェブ

沖縄タイムス「戦後60年平和ウェブ」 はお薦め

反対派、24時間阻止体制/辺野古調査 (沖縄タイムス)

辺野古沖10km(名護・嘉陽沖)にジュゴン (琉球新報)    


 これらの少数民族沖縄人とはモラルと常識が、日本人である自分とは余りに異なるので、日常生活において避けている。彼らは沖縄人であるとか自己の押し付けに躍起であり積極的である。従って避けているわけである。結果として「これら少数民族」の言動におけるモラルや常識を自分は知らないし、知る気もない。 日本民族である自分のモラル・常識からすれば、「ヘノコの騒動」に関しては「ナリタ問題」と同じであり、これに対しては機動隊をもってすればよい。これ以上の意見はない。また「希少価値動物」については、その保護等を含めて人工飼育が妥当である。グリーン・ピースを含めた環境保護団体の視点に欠けているのは、地球環境並びにそれに関する科学知識である。餌場は空港が建設されなくても消失する可能性が強いのだが、彼らはそれへの解答などもってはいない。ただ「自然はあったとおりのままであれ」が彼らの「環境意識」であり、それは日本人が古代よりもっている思想であるあり、自然生成説の一種でしかない。人類の問題ではなく、この思想のあり方の問題であり、環境保護とは無関係なことが「ヘノコ」で行なわれているだけである。  

 歴史を知るのは結構なことである。但し少数民族沖縄人の場合、その歴史とは多くは戦争とういう検索には「沖縄の地上戦」しか出てこない。自分は戦争の行なわれない世界を望んでいる。しかし超能力的に「チチンプイプイ」とする「スリサーサー、エイサーサーサー、平和サーサー」と太鼓をバンバンと打ち鳴らすことで、政治システムとして外交の一手段としての最終的手段としての「戦争」としう手段を超克できるシステムが構築することができるとする、少数民族沖縄人を「気違い」として判断し断定している。 自分が「戦争」を検索すれば、沖縄での地上戦は太平洋戦争における「アメリカの一戦略」でしかなく、戦争を思考する上での参照にすらならない微細な歴史的事実でしかない。従ってこれを大仰に語ることは思考の妨げにしかならない。  

 列車事故があった。自分はこれをニュースとして知っている。自分はやがてこれを忘れるだろう。多くの人がそうであると思う。だが、この事故において奇跡的に助かった人は、このことを一生忘れ得ないだろう。自分が「忘れる」のが自然であるように、「忘れ得ない」が自然であろう。その人たちにとって、それは「思い出したくない」という体験であろうし、本人にとっては何とかして忘れたいことになっていく。 これと同じで「戦争体験を忘れるな」という人がいる。こう言える人は「幸福な人」である。「戦争を体験した人(巻き込まれただけでなく)」にとっての戦争体験は、「何とかして忘れたい、ただ忘れたい」の一心でしかない。 だがこういう体験者には必ず偏見がある。この偏見が脳裏に塊のようになり、日常生活にまで支障を来たすことを医学では「PTSD」と呼んでいる。その実体は「偏見」なのである。 体験者に「列車はそうそう事故は起こさないよ」という言葉は通じないだろう。非体験者はその事実の通りの行動を起こし、今日も多くの人が列車を利用する。しかし「事故があった」ことは事実であり、また「将来、事故がある」ことも事実である。このことは「戦争体験」なるものでも同じである。  これらの異常体験の体験そのものは、その人だけの問題である。列車事故同じである。従ってこの事故の当事者のは、その体験が日常生活に支障が起きず、以前と同じ日常生活を一日も早く送れることを願って止まない。 しかしこの異常体験は他人には伝わらない。一個人の体験を他人が共有することはできない。もし共有できれば相手はその体験者のもつ、所謂、プログラムをそのままダウンロードしたことになり、つまり洗脳した人と同じことになり、相手は存在しえなくなる。体験を共有させるとは、だから、「相手を殺す」として自己の分身とする以外にあり得ないことである。これが実際には行ない得ないことは誰のでも明らかであろう。 だが異常体験から生ずる「偏見」は他人も共有できる。従って社会にとって問題となるのは「偏見であっても、異常体験」そのものではない。そして偏見は社会的通念(常識)にまでなり得る。 


 少数民族沖縄人の語る「常識」なるものの内容はこれであり、戦争体験者が行なってきたのが、社会を「自己の異常体験から生じた偏見」に従って再構成することであり、今も「戦争体験の継承」という言葉でそれを行なっている。  

 明日はこれら少数民族沖縄人の御遊戯、つまり演技者のことである。 

『我輩は猫である』(2) Ψ精神医療初の犠牲者…猫は追跡妄想者の産物?Ψ 

      5-11 高橋由美子
  著者: 夏目 漱石
   タイトル: 吾輩は猫である

詳しい記述は忘れてしまったが、漱石が壁一つ隔てた隣に住む学生に向かって「学生君!君がボクを追跡していることはわかっているんだがな。やめてくれないか」と言ったする逸話が残っている。
 これは漱石が【我輩は猫である】を書く以前のこととされている。

 ところで漱石には「精神病があった」とされている。作家&精神科医の”なだいなだ”氏のよれば、「精神科医でこれを否定するもはいないだろう」ということであるらしい。だが「その病気が『躁鬱病』だったか、『分裂病』だったかとなると、議論が分かれ(中略)分裂病と診断することは、おしまいには痴呆化(認知障害)し精神的に廃人になってしまう、という見通しを示すこと」であるとも言っている。そして「漱石の示した症状には『躁』も『鬱』もなかった」そうである。
 漱石の診断を行なったのは、当時の最高の権威者である東大教授呉博士で、1903年のことである。このときの診断は「追跡妄想」だったと言われている。しかしカルテはげんぞんしない。だが「それではなぜ『追跡妄想』だったと言えるのか」と言えば、その答えは、専門家によれば簡単であるらしい。
『「分裂病」という病名が登場するのは1911年、時間的にいっても、「分裂病」の診断はつけられない。クレぺリンが「分裂病」の先駆的分類名である「早発性痴呆」の診断をはじめて教科書に載せたのは1899年だった。呉さんがこの診断をつけるには1903年は早過ぎる(中略)「早発性痴呆」という病名を患者につけることは(中略)妄想や幻覚を持った患者は、おしまいは痴呆化すると(中略)漱石は激しい妄想を持っていた。だからその時点で診断する医者は分裂病であるといいたい。だが、誰もが漱石は痴呆化しなかったことを知っている。そこで「分裂病」が引っ込められ「躁鬱病」という診断が登場したのだ』としている。そして『…内因性精神病にはその二つしかないという考えからが支配的(中略)「分裂病」でなければ自動的に「躁鬱病」ということになる。だが、漱石は躁鬱病が一般的に示すような症状をぜんぜん持っていなかった』そうで、この場合専門家は『…現実が理論に合わなければ、理論を変えなければならない。「分裂病」はかならずも痴呆化するという考えを捨てるのも一つだし「躁」も「鬱」の症状のない「妄想」の症状しかない「躁鬱病」を考えるのも一つの手である』とし『現実の精神科医のあいだの論争は、どちらをとるかの論争だといっていい』とされている。卓見である。

 だが、なだ氏と意見を異にするのは、『漱石は激しい妄想を持っていた。だからその時点で診断する医者は分裂病であるといいたい』としていることである。これを何を前提にしているかわからない。私は漱石には「妄想は存在しなかった」と思っている。確かにロンドン留学時に漱石は激しい劣等感に悩まされた。しかしこれは彼個人が持つ劣等感(あばたでチビという容姿的劣等感はあるにはあるが)というより、広く当時の日本人が西欧人に対した劣等感であったろう。帰国して「西欧との隔壁をどうるかの悩み」が凡庸な呉博士には「妄想」に思えたのではないか。悩みない人間が「優秀」であるとは限らないのだ。知識が足りなければ足りないほど「思うことも少なく」個人を超えたことで悩むことはあり得ない。
 従って、初めに話した「学生君=探偵である」という逸話は、どうも後代の創作ではないかという気もするのである。


【我輩は猫である】は、こういう状況下で、激しい妄想をもった漱石の、追跡妄想をもった漱石の、その追跡妄想を猫に託した作品としてこの世に産声を上げたのである。このことを誰が信じたのだろうか? 誰が信じるのであろうか? 私の関心はなだ氏と異なり、呉博士は誤診したとし、その場合の証明及び補償の問題が現在の日本には世界のどの国よりもあるという事実である。
 幼児虐待において親の許可なしで保護できるよう、日本はなった。この種の虐待まで行かず、しかし確実に将来その子は精神病的症状を発病すると思われる、その子の親が多い。日本において沖縄は一番であろうし、世界一でもあろう。その原因は封建思想である。この思想についての評細は今回は述べない。
 簡単に言えば、幕藩体制と自己の権力を維持しようとする徳川幕府にとってはありがた思想・道徳だった。原文では「君不君、臣不可不臣、父不父、子不可不子」で、日本語では「君主(上司等)がどんなに乱暴をしても、馬鹿であっても、臣下(部下等)は部下としての忠節をつくさなければならない」同様に「父(両親)がどんなに乱暴であり馬鹿であっても、子供に対する愛情がなくても、子供は至上命令として父(両親)に対する愛情をもたねばならない」とするものである。これは中国思想ではない。従って儒教ではなく、中国ではこのような考え方も著書もなく、日本独特の封建思想・道徳である。
 これの超克が、精神科医療自体の問題よりも急務であり、これなくして医療改革もあり得ない。沖縄ではこの日本の長い歴史の中での数多くある思想の中の一思想でしかない「日本的封建道徳・思想」を、人類普遍の思想と喧伝しているのが文化人・知識人などと称している人々であり、またそれは「沖縄芝居」に演じられている世界でもある。

町人文化の艶やかさ艶かしさ∽【一枚摺屋】城野隆第12回松本清張賞

            

          一枚摺屋 浜崎                                         

            

  文学 隔月刊 第6巻・第1号(2005年1,2月号) で、中野三敏さんが『上方摺物の世界』について書かれておられる。全文紹介させていただく。   この数年来、摺物の展覧会というのを幾つか見ることが出来た。いわゆる大小の絵暦に始まって巧緻絢爛の極とも言うべき狂歌摺物に至るまで、おおむね錦絵系統のもので、楽しめることは間違いない。浮世絵展も愈々種がつきてのことと冷やかす向きもあろうが、そんな事に頓着せず、どんどん幅を広げて貰いたいものと思っていた矢先、こんどは俳諧一枚摺りの特集が組まれるという。文明の余沢ここに極まれり。  こうした物の存在が一部の好事家やコレクターの専有から解放されて、研究の俎上に登ること自体は、大いに慶賀すべきことであるに違いはないが、一方また、此等の意義を逸早く感じ取って、その散逸・消滅を防いできたのが、他ならぬその好事家やコレクターであったことも、忘れてはなるまい。しかも浮世絵に始まって摺物に至るこの世界は、言うまでも無く外国の目利き連によって支えられてきた所きわめて大きい。現在この領域での研究の、本当にその物に即した実績をあげるべく志した時、大英博物館東洋美術部を初めとする欧米諸機関を歴訪する手間を省いては、到底成り立ち得ないこと、もはや周知の事実であろう。絵本迄を含めたこれ等の多色刷りの世界では、たとえば初刷りと後刷りでは、とても同じ物とは言えぬほどの懸隔が生じること、実際に経験した人ならば、たやすく領解出来ようが、その完好な初刷りに近づこうとすれば、国内の諸機関は殆んど絶望的で、否応なしに外国に向かわざるを得ない。   江戸文化といえば庶民文化・町人文化と一つ覚えのように言い立ててきたのは、時代の趨勢ではなかったか。それならばその領域で、これこそまさに疑いようのない成果と言うべき多色摺りの絵本・版画・摺物を、完全に一握りの好事家や外国の目利きにゆだねきって何の処置も構じてこなかったこの国の文化伝統は、一体庶民文化の何を評価しようとしてきたのかと、悔んでばかりいても致し方ない。何はともあれこうした展覧会や特集の試みが、以後、更なる領域を広げて行なわれ、その面への識者の注意を刺激し続けることを願ってやまない。   その一例になるかならぬか、俳諧一枚摺りの世界を、上方にもう一つ広げて、役者や芸妓の御披露目や追善の摺物の存在にも目を向けて欲しい。前述の大小や狂歌摺物が専ら江戸で行なわれたのに対して、これは一応「上方摺物」とよべばよかろうか。その形態・意匠・画風等、あきらかに俳諧摺物から出て、更に独特の趣きを示したものと言えるが、享和頃に始まり化政・天保期を盛りに明治まで、専ら上方で作られた。  その一番の特徴は形態にある。大小や狂歌摺物が大かた色紙判(大奉書六等分ほど)か、より小さな紙面に繊巧精緻を極める方向へ向ったのに対し、この上方摺物は大奉書(約三七・八センチ×五四・五センチ)まるまる一枚を用いるのが常態で、従ってその紙面を存分に用いた伸びやかな絵様は、大小や狂歌摺物の神経質な細やかさとは全く異なり、甚だ大まかでのんびりした風趣を備える。これこそが上方の趣味とも言えるのではないか。絵師は上方なので専ら四条派・円山派といった所が多い筈だが、中で目立つのは丹羽桃渓で、殆んどこの方面の専家といっても良いほどである。その他、大坂の松川半山や浅山芦国といった所に混じって、東渓・東南・東居といった一連の名乗りが目立つほか、花兄拱斎、文輝云々といった名前の絵師達は、今のところまったく無名といってもよい存在であり、俳諧摺物の方は、上方でも中村長春、山中松年、上田公長、佐藤魚大、長山孔寅などなど、それなりに通った四条派・円山派の名前が見られるのに対し、この上方刷物の画師は、どうももう一段下った上方風俗画師であるらしく、しかしその画技は皆一様に相当な腕前を見せており、それが皆画壇的にはまったく無名の存在である所に、四条・円山派とはもう一つ別種の上方浮世絵派とでも言うべき、これまで殆んど手のついていない研究領域が展開しそうな予感さえするのである。版元も摺物の片隅か裏面に朱印風に捺され、京の菊舎か、大坂の片岡墨仙堂、谷清好等の名が見え、これ又今後の研究に俟つ所大なる領域である。  内容は上方役者の襲名披露や追善・年忌が中心だが、面白いのは歌妓や風呂屋女といわれる私娼の御披露目も多く、一門や傍輩の発句や狂歌・和歌を載せる。   どうやら発案者も特定出来そうで、それは京の公卿衆俳人として知られた富土卵を筆頭に、御仲間の西村定雅、大坂の田宮仲宣、二斗庵下物など、所謂粋株連らしく、となれば親玉株の中島棕隠なども加わったに違いはないのだが、その連中が寄り合って上方芝居の評判記などを作る際の副産物だったと考えれば、最も自然な成り行きだったように思える。こと柄は西沢一鳳の『伝奇作書』拾遺上巻に「京摂にて戯場によりたるを書に出す時は、東都と違ひ、戯作者を業とする人なく、只金満家の主……是を皆粋人と号……芝居見物後に各茶屋料理屋の席を定め、党を集めて評を定め……依怙の沙汰する人は断て席を退け」といった辺りから類推出来よう。  江戸と上方では、こんな所にもこんな違いがあった。芝居関係の摺物にも自然とそれはあらわれる。敢えて「上方摺物」という所以である。もっとも、江戸でもこれに倣ったかと思われる形のものもあり、文晁・武清・加保茶宗円あたりが散見するが、これも殆んど手つかずである。    今一枚摺をいえば大相撲の番付表 を思い浮かべる人も多いと思う。   

 その一枚摺の世界 を描いた歴史小説で、城野隆さんが第12回松本清張賞 を受賞された。賞金は500万円。贈呈式は6月16日午後6時から東京・内幸町の帝国ホテルで開かれる。  


〔著者紹介〕

城野 隆  1948年11月22日徳島県生まれ。大阪教育大学卒業。74~00年公立学校教員。現在、ライター。 <作品>  

「月冴え」(短編)=小説NON創刊150号記念短編時代小説賞受賞、99・9小説NON。 

「龍のいる村」(短編)00・2小説NON。 

「妖怪の図」(短編)=第24回歴史文学賞受賞、00・2歴史読本。 

『妖怪の図』(短編集)01・5新人物往来社刊。

『天城峠』(短編集)03・7祥伝社刊。



著者: 城野 隆

タイトル: 天辻峠―時代小説

 幕藩体制の矛盾がもたらした時代、自らの生きざまを選択せざるを得ない状況に追い込まれていく主人公たちを細やかな筆致で描き出した時代小説。
 表題作など6編を収録。『小説NON』掲載に書き下ろしを加えて単行本化。

著者: 城野 隆
タイトル: 妖怪の図
 舞台は天保時代、老中水野忠邦の「ご政道改め」の嵐が吹きすさぶ…権力に立ち向かう浮世絵師・歌川国芳の生きざまを描く異色作!第24回歴史文学賞受賞作!表題作のほか、「風霊の家」「物怪の街」等4篇を収録する歴史秀作集。
〔目次〕
妖怪の図/風霊の家/物怪の街/冥土の煙/修羅の道

〔予選通過作品&候補者紹介〕

北林一光(きたばやし・いっこう) 「幻の山」   1961年9月30日長野県松本市生まれ。青山学院大学在学中より三船プロダクションなどで映画・TVドラマ製作に関わり、卒業後は映画配給、宣伝、および東京国際映画祭協賛企画(ゆうばり国際映画祭、東京国際ファンタスティック映画祭、サンダンス映画祭など)の企画運営に携わる。現在は農業。

<作品>「鹿毛馬のいる山」=86・第63回文學界新人賞候補。「瞑れる山」00=第7回日本ホラー小説大賞候補。


倉石 歩(くらいし・あゆみ) 「プリテンダー」  1966年2月11日長野県松本市生まれ。88年3月京都外国語大学英米語学科卒業。

<作品> なし


 桜木紫乃(さくらぎ・しの) 「霧灯(むとう)」  1965年4月19日北海道釧路市生まれ。北海道立釧路東高等学校卒業。

<作品>「雪虫」=第82回オール讀物新人賞受賞、02・5オール讀物。「海に帰る」03・5オール讀物。


過去受賞者

第0012回 平成17年度  城野隆   φ一枚摺屋

第0011回 平成16年度  山本兼一  Σ火天の城

第0010回 平成15年度  岩井三四二ξ月ノ浦惣庄公事置書 /文藝春秋

第0009回 平成14年度  山本音也  μ偽書西鶴

第0008回 平成13年度  三咲光郎  ρ群蝶の空

第0007回 平成12年度  明野照葉  δ 輪廻(RINKAI)

第0006回 平成11年度  島村匠   α芳年冥府彷徨

第0005回 平成10年度  横山秀夫  βの季節

第0004回 平成09年度  村雨貞郎  λマリ子の肖像

第0003回 平成08年度  森福都   ‡長安牡丹花異聞

第0002回 平成07年度  該当作なし♪

第0001回 平成06年度  葉治英哉  ∟またぎ物見隊顛末

聖書

著者: 共同訳聖書実行委員会, 日本聖書協会
タイトル: 聖書―和英対照

 

 聖書のように長期間に亘って多くの人に読まれた本はない。今後も出現しないだろう。この本は人類の最大のベストセラーでありロングセラーである。面白いことには、そのことは非キリスト教国の日本も例外ではないらしい。
 1980年時点で、日本聖書協会の様々な形の聖書の出版部数(口語・文語合わせて)、ホテルなどに置かれるギデオン協会版、その他の各書別小型版などを入れると頒布総数1189万冊に及んでいる。この他に講談社、ドン・ボスコ社、山本書店(新訳原文対訳)、岩波文庫、光明社(ウルガタ・ラテン語からの訳)等の版もある。
 これは日本だけのことではない。近代化・世俗化とともに聖書の読者は減少するであろう。そういう予想を裏切って、英語圏に於いても年とともに発行部数が増加していることは、L・E・ネルソンが『聖書の足跡』の中で指摘している。
 これだけ頒布されている聖書だが、日本ではそれは読まれている本ではない。読みたくない者を人は購入しない。だが聖書を購入した人の多くは、それを読まない。従って、旧新約聖書を読破した人は、それが頒布されている数字と対比して極端に少ない。それでありながら、「無人島の行くとすれば一冊の本として何を選ぶか」アンケートには、日本での屡聖書が顔を出す。そういう機会があれば読んでみたいということだろう。「読んではみたい」が「読みました」にならないのには理由がある。それは、聖書は週刊誌のように読みやすい本ではないということだ。
 しかし、聖書は、読めば詠むほど人を引き込んで行く奥行きの知れない何かがあるらしい。そんな漠然とした思いを人々は何と無く感じていて、それを感ずるから膨大な発行部数になり、無人島の一冊の本にも顔を出すのである。しかし、詠むに手軽な本ではない。そこですぐに読むのが億劫になる。そして読むのを止める。そういう例が後を絶たない。

 

 聖書とはどのような本であろうか。
 聖書に託して自己の信仰や思想を語ることは簡単なことである。また、日本に多く普及している「聖書物語」という形で、聖書を興味深いストーリーにするなら、逆に聖書の世界観を遠ざけてしまう。旧新約聖書それ自体を解り易く要約して解説することは、不可能に近い至難の業である。
 至難の業になる理由は簡単である。日本は過去に於いて、聖書若しくは聖書的発想に殆んど接しなかった、世界でも例外的民族だからである。キリスト教圏、ユダヤ教圏、イスラム教圏はもとより、共産圏もヘブライズムの影響下に成立している。また一見聖書には無関係な様に見える中国でさえ、太宰春台が「明の万暦年中に、欧羅巴国より利瑪竇(マテオ・リッチ)という者入朝して天主教を説くに、其説程朱の性理学に似て、其精緻さること性理学を超たる故に、性理家の学者、己が道を捨て、天主教を受けたる者多し」と指摘しているような共通の基盤ともいえる面があった、
 一方日本は、鎖国によりキリスト教を排除し、明治の開国以降も、聖書乃至聖書的発想に関する限り、鎖国を続けてきたし、続けている。これが例外的に為らざるを得ない理由である。この至難は、日本が聖書的発想を基本とする文化圏と摩擦なく接触することが至難になる点に通じている。そしてこの問題は、日本が国際的に大きな地位を占めている間は表面化し、避け得ない問題であり続ける。

 聖書を知らない人は、まずいない。しかし、聖書についての正しい知識となると、日本人の場合、極めて心許ない。聖書は誤解されている。その誤解の第一は、聖書は一冊の本であるとする誤解である。
 確かに現在では一巻の「旧・新約聖書」を手にすることができる。しかし、何れの部門にも「一巻本双書」があり得る様に、一巻だから一冊は言えない。その意味で聖書もまた一冊の本ではない。
 旧約は創世記から始まって39冊の本、新約はマタイによる福音書から始まって27冊の本から成立している。そしてその各々は「本(ブック)」であっても「章(チャプター)」ではない。それらは其々が独立した本であり、聖書とは各本を一冊にしたものなのである。
 だがそれらは、現代文学者の単行本を時代順に纏めて一冊にしたとものでもない。つまり互いに関連のある本であり、一定の方針で編集された全書なのである。中国語訳聖書と昔の日本訳聖書には「旧約全書」「新約全書」という標題がついていたが、この方が聖書の内容を正しく伝えている。その意味で「全書」という訳が正しく「聖書」という訳は間違いであろう。
 第二の誤解は、聖書が「宗教書」であると受け取られていることである。日本人にとって宗教書と云えば、例えば『歎異抄』『法華経入門』と言った本である。だが聖書はこのような意味の宗教書ではない。勿論、聖書の中には所謂「宗教書」に分類される本もある。だがこれは聖書の一部であっても全てではない。
 聖書への第三の誤解は、聖書はキリスト教の聖典だという受け取り方である。日本人が聖書とキリスト教を結びつけるのは無理がないことである。だが、聖書のキリスト教史よりも古い。言い換えれば、聖書の大部分はキリスト教の発生以前から存在していた。聖書はキリスト教の独占物ではないのである。
 旧約聖書から生まれた宗教は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教である。旧約に「タルムード」がプラスされたのがユダヤ教、旧約プラス「新約」がキリスト教、旧約プラス「コーラン」がイスラム教である。従って旧約聖書は三つの宗教の基本になっている。其の意味で現代の世界の大部分は何らかの形で「旧約的発想」の影響を受けている。つまり「契約」という概念・思想である。そして、その影響を殆んど受けなかった民族の一つが日本人であり、これ世界でも例外的特殊な事象として取り上げられる。


 追伸:

  この記事へ、ブログタイトル『作家&社長とか★成田青央xx blog』から、記事タイトル『別冊歴史読本の「世界に拡がるユダヤ・聖書伝説」に執筆しています。』でTBを頂きましたが、そのブログを訪ねましたらサイトが「文字化け状態」でしたので、このTBを削除させていただきました。

Wise man make more opportunities than they find.

著者: ジョン ミシェル, John Michell, 高橋 健次
タイトル: シェイクスピアはどこにいる?
 一般にはストラトフォード・アポン・エイヴォン出身の彼がウィリアム・シェイクスピアだとされている。だが本当にそうなのか?  
 無学な田舎者、高利貸、売れない役者…その痕跡は、われわれのシェイクスピアのイメージを裏切りつづける。本当の作者は他にいるのではないか?  
 イギリスの伝統ともいうべきこの問題を歴史的に整理し、論争の経緯をダイジェストした。
(目次)
 第1章 異端説への道
第2章 作品の背後にある精神
第3章 ウィリアム・シャクスペア―その一生と伝説
第4章 未解決の疑問
第5章 シェイクスピアとしてのフランシス・ベーコン
第6章 オックスフォード運動
第7章 伯爵など
第8章 候補者とされた専門家
第9章 最後の総点検  
  誰もが知っている大劇作家であるにもかかわらず、作家本人の顔は「痕跡として」明確に残さていない。 その説が生まれるには、次のような要因が存在するからだ。
①直筆原稿が存在しない
②直筆とされるサインはスペルや筆跡が異なる
③常人をはるかに超える語彙と専門知識  
 本書は、研究史的な側面から多くの説を紹介している。真の筆者候補も膨大で、古くから有力視されてきたフランシス・ベーコンをはじめ、ダービー伯ウィリアム・スタンリー、ラットランド伯ロジャー・マナーズ、ウォルター・ローリー、ソールズベリー伯、エリザベス1世などなど、エリザベス朝時代の有名人が多く出て来る。  
 シェークスピア=ベーコン説は有名である。ベーコンが彼と同時代人であり、当時の最高の知識人であったことが、その説の根拠となっている。
 そのベーコンは後世に次のような言葉を残している。  
Wise man make more opportunities than they find.
(知恵のある人たちは発見する機会を見つけるのではなく、機会を作るのだ。)             
                       Sir Francis Bacon(フランシス・ベーコン)  
シェークスピアの正体はフランシス・ベーコン

 名言だ! 確かにそうなのだ。 

 自分も多くの劇作ファンも、シェークスピアの作品の中に「人世を発見する機会」を作っているが、ある種の人たちは「彼が誰であるかの機会」を見つけようとするかのようだ。


 そして、また、現代も、

 Wise man make more opportunities than they find.  

英国立肖像画美術館

 英国の国立肖像画美術館は21日、文豪シェークスピア(1564~1616年)の生存中の作とされる肖像画の描かれた時期が、死後約200年後 の19世紀前半だったと確認したことを明らかにした。同美術館は他の二つの肖像画も分析中。英メディアは、世界に流布された「はげ頭にひげ面」の印象が変わりかねない、と指摘している。  問題の肖像画は、多くの本の表紙を飾るほどの代表作「フラワー・シェークスピア」。同美術館の150周年を記念して来年開催されるシェークスピアの企画展に合わせて調査を実施した。最新の技術を駆使して約4カ月間調べた結果、1814年ごろ以降に使用され始めた顔料が含まれていたことが判明。顔料は修復に使われたものでもないことから、1818~1840年ごろに描かれた作品と断定した。  

 同美術館側は、新たに分かった年代は、シェークスピア作品への関心が再燃した時期と重なり、貴重な歴史的資料であることに変わりはないとしている。  


 もうひとつの「肖像画騒ぎ」を……

英首相の肖像画、作者はストーカーを自認

 ブレア英首相の肖像画が28日からロンドンの王立肖像画家協会主催の展覧会で展示されるが、作者ローナ・ウォズワースさん(25)は首相のいわばストーカー だった。 

 肖像画家のウォズワースさんは、首相が一番描きがいのある人物だったため、会議の度にこっそりと追いかけ回していたという。 そんな昨年のある日、ウォズワースさんは党の会議で肖像画を描くよう招待された際、部屋を歩き回り、ついに本人と対面する機会を得た。 彼女の話では、ブレア首相は「君だったのか」と驚いたというが、「金髪の風変わりな女性を怪しんでいたと思う。私がマニアックな人間でないことを知ってほっとしたみたい」という。 

 その結果、ウォズワースさんは会議が開かれたホテルの部屋で首相の肖像画を描くことになった。 物思いに沈んだような面持ちの首相を描いた作品は、ほかの政府要人や党幹部らの肖像画と共に展示される。ブレア首相が正式に肖像画のモデルになることはめったにないという。  


 これもまた、 Wise man make more opportunities than they find.

『我輩は猫である』 (1) Φ絶対神を排除し得た八百万の世界Φ

著者: 夏目 漱石
タイトル: 吾輩は猫である




『我輩は猫である』は漱石の最初の小説である。だが、自分が読んだ最初の小説ではない。中学の学校のカリキュラムに、この小説はなかった。確か、高校生のカリキュラムには、この作品ではないが漱石の何らかの作品はあったと聞く。 

 渡部昇一さん(上智大学教授)によれば、入学の面接で多くの学生が愛読書に掲げるのは「漱石」の著作であるらしい。しかし、それは学校で読まされた程度の話で、いわばリーダーズ的要約のさらにその一部が掲載された、その「タイトル」が「愛読書なのです」ということであるらしい。


 『我輩は猫である』は、主人公である苦沙弥の書斎を中心として、その友人である自称美学者の迷亭、哲人独仙、苦沙弥の生徒であった物理学者の寒月、苦沙弥の書生をしていた三平などを主要人物とし、その一群に対立する俗世的人物として金持ちの金田、その細君の鼻子、その娘の富子を配し、富子と寒月の間に淡い恋愛を進行させている。 その間に、近所の車屋、魚屋、中学校の生徒達、泥棒などが絡まって話しは進行して行く。  

 だがこの小説の面白さは、後の作品『坊ちゃん』のような恋愛の筋にはない。寒月と富子の恋は筋が筋が一本ではないこの作品では、事件としても印象が薄い。むしろ、この二人を取り巻いている雑談・珍談、色々な小事件、風呂場の描写、親戚の娘の洋傘の話、金田の細君と迷亭の言い合い、中学生の悪戯、寒月の演説などに、この作品の拠っているところが大きい。


 当時、漱石は、「小説の本質はその筋の発展にあるのではない。小説として純粋に面白い各種の場面の総合による構成が小説としてより良い方法である」と考えていた。それは、話の筋をもととして小説を作るのではなく、面白い場面を繋ぎ合わせてのみ筋はあるのであって、筋を従属的なものと考える傾向であ。そしてこれが20世紀以降の小説スタイルにもなっている。  

 

 この小説の主人公は苦沙弥であるかが、彼の視点に従って書かれてはいない。物語の語り手は「猫」である。旧約聖書には猫と言う言葉はない。彼等の世界観には「神は住めるが猫は住めない」のであろう。 漱石はこれら聖書を始め西欧の古典、日本の古典、中国の古典、仏典まで自由自在に読みこなすことができた稀有な作家だった。そしてさらに驚くべきことは、それらの古典を読むに留まらず、自分の作品の中に縦横に駆使し得た同時代で、世界最高の知識人である。「はじめに神は……」ではなく、人の世を作ったのは人だという日本人の古来からの一貫した根源的な考え方を処女作から作品に盛り込んだ。 神が主人公で猫はいない世界でない日本の社会、その社会に猫を主人公とし「主人公としての神」を省いてしまったのである。「汝等これこれを守れ」という絶対神と契約を結ばなかった世界に、猫が「汝等はコレコレだ」と人間を定義して行く。これを人間がやれば唯の覗き魔になるところを、漱石の作劇術は「猫」を主人公とすることで解決している。 

 この作品によって、神話世界の八百万の神々が近代社会に復活した。だがすでに時代は、絶対神としての現人神信仰に満ちていた。これは天皇信仰ではない。権威や権力を事大主義的に捉え、それに従うことを強要する人々の信仰心のことである。いみじくも漱石は予言し得た。「五年も十年も人の尻に探偵をつけて、人のひる屁を勘定して、それが人世だと心得ている」(『草枕』より)、広岡先生の「日本は滅びるね」は現実となった。文字通り「隣組」から発生した「特高警察」の思想弾圧の描写ではないか。猫が徘徊しているうちは良かった。絶対神も排除し得たのだ。といって勘違いしてもらっては困る。自分は野良猫放置主義者ではない。  

 この作品の中には、これに限らず日本の社会に対する批評が笑いの形で鋭く行なわれている。そして当時漱石を批判した藤村や花袋などの自然主義作家の小説が、他よりも自己を批判し、「社会から逃亡しよう」とする意志で書かれているのに対し、漱石はその社会を笑った。しかし彼は「ゲラゲラゲラ」と口を大きくし下品に笑っているのではない。社会を痛烈に批判して笑っているのである。それは上品な笑いだ。社会に対して積極的で論理的であったという意味で。     

群れなる人の憧れ、【斬首の光景】のヴィジョン

著者: ジュリア・クリステヴァ, 星埜 守之, 塚本 昌則
タイトル: 斬首の光景

 日本女性の好きなフランスのパリ、その街のモンマルトルの丘は旅行パンフレットに必ず紹介されてる地ではご存知の通りです。 

 画家の憧れの地?そのモンマルトルの丘で斬首され、殉教した聖ドニ(サン=ドニ) が 自分の首を抱えてこの地までたどり着いたという起源を持つ教会がサン=ドニ教会 、フランス歴代の王族の霊廟でもある。 この教会の旗には、首を持つ聖人ドニが描かれている。


 [斬首] 、著者・ジュリアは、あらゆるイメージの根源に「斬首」のヴィジョンを見る。首そのものだけの光景、そこに決定的な場面を見る。この書はルーブル美術館の協力のもと、その「決定的な場面に浮かぶ首」を追求した美術・哲学論です。  


 ジュリアはデッサンという行為に、自らの母親の記憶から人類の黎明期に繋がる普遍的な営みを見出します。その行為が、あらゆる宗教現象の机辺となり、切断された頭部のイメージへと結晶して行く。 

 太古の人類における頭蓋骨崇拝にはじまり、古代神話のゴルゴン、キリストの頭が変成したビザンチンのイコン……さらに、探求は「残酷」そのものとして屹立する近代のギロチン、現代のアヴァンギャルド芸術にまで至る。  


 恐怖と魅惑に満ちた120点の頭部のみの図版…それとともに語られる精神分析学、文化人類学、ギリシア正教を中心とした宗教学、フェミニズムに由来する膨大な知識…それらを駆使して語られる真実の数々……  


 著書・ジュリアはブルガリア出身で、バルトやソレルスらとともにフランス現代思想界で中心的な役割を果たし、現在でもさmざまな問題を発表し続けている。「異邦の女」」と称される彼女の、この本はデリダの【盲者の記憶】の姉妹編にあたります。  


 今から二千の前、文化の中心はローマやギリシアに面する地中海、その地中海に面するフェニキア、イスラエルだった。日本女性の憧れのJALパックの地であるフランスやオーストリアは流刑人の地であった。彼らは自らの祖先の業から脱することはできないのかもしれない。

樹木で揺らいでいた頃の記憶:【枯葉の中の青い炎】(辻原登)第31回川端康成文学賞

著者: 辻原 登
タイトル: 枯葉の中の青い炎

 アリストテレスは『良心とは内なる神の声』と言った。
 その”声”とは、その声を聞く者が、幼児の時に覚えた景色、刷り込み現象によって「トラウマ」よりも、遥かに強く深く各人に刻まれた景色、その人の「故郷」である。
 人はこの”故郷”から遠ざかれば遠ざかるほどに、ゲーテの《ファスト》の最終幕の「留まれ、お前は美しい」とする台詞を口にするようになり、これが悪魔との「俺がもし、こう口にしたとき俺の魂をさらって行くがいい」との契約の実施となり、ファスト博士はあの世へ旅立つ。

 日本社会は契約社会ではない。従って悪魔との契約もない。しかし、博士と悪魔との契約条項は、劇的な形でないにしろ日本の老人にも適応できるものだ。無理もない。故郷から食み出した者が勝手に時間を止めようとするのだから、住んでいる人間からすれば大変に迷惑な存在であるからだ。

 この迷惑な幼児体験である故郷を強く思う心は、後天的に身に付けた教養とか原理原則とかが何かの場合無力になった時には、猛烈なパワーとなって噴出するそうである。これを心理学者は「霊(アニマ)」と呼んでいる。この言葉はラテン語だかが、ギリシア語ではプラウマであり、英語だとムード乃至はそれが竜巻状になって自己解体(自己喪失・消失)となるブーム、日本語では空気となる。

 自分の実家のある沖縄県は「アニミズム」社会と言われている。至る所が、あらゆる人が「霊」だと言う事だ。ところでラテン語の「アニマ」は、日本語の「幽霊」「妖怪」という意味は含まない。ギリシア語の「プラウマ」でも同じだ。彼らの文化では霊乃至は魂は人間の中にはいない。この霊は外から人間に照射する形で入ってくる。その何か見ざるものの力で人々を支配するが、その実体は風のように捉え難いとされるものである。確かに沖縄島には「外から私に照射するような感じで入ってきて、その力で私を支配しよう」とする現象は多い。ただ「アニミズム」達にとって残念なことは、自分はムードやブーム、空気や雰囲気に支配されにくい性質なので、またその実体は分析し得るので、なかなか支配できずにいるようである。  

 このような沖縄社会は、今ブームだそうである。古き良き日本の故郷が残っているのだと言う学者もいる。確かに東京人が、特にビジネスマンたちが欧米的市場原理至上主義の経済活動行うべきか、それとそういう日本人にはハードな生き方を考え直して、頑固として高層ビルの裏側の”オシメの匂いの漂う生活感(?)”ある社会へ戻ろうよとする意識と”ちゅらさん”の放映が重なったことで、沖縄は「永遠なる人間精神の停滞地帯」、日本の故郷を「精霊」の力で守っている場所として注目されてはいる。そして沖縄とは、ソフトを好む日本人の心情の発露地帯であり続けるよう運命付けられているのであろう。このことは内外部の沖縄に対する発言でも明らかなことである。

 嘗ては、樹木に青々と繁っていたであろう一枚一枚の緑の葉……枯葉は樹木から離れても”青い災”を自ら消すことはない。否、この枯葉の時こそ、青い災は激しく燃え立つものであろう。


 昨年発表された短編ベスト1に贈られる第31回川端康成文学賞(川端康成記念会主催) に、辻原登氏(59)の「枯葉の中の青い炎」(「新潮」昨年8月号掲載)が選ばれた。

 この作品は、様々な光彩を放つ6編の収録で成り立っている。

 『少年時代としかいいようのない漠然とした昔に、それも本で読んだのか耳から聞かされたのか、はっきりしないあるひとつの物語が記憶の底にうずくまるようにしてあり、それがときどき跳びかかってくるみたいに浮かびあがって、言い難い魅力で僕をとりこにした』
 これは《日付のある物語》という作品の冒頭の一文である。
 六つの短篇を収めた本書は、この「物語」が現実を見る視線に、虚構という作用を及ぼし、そこから「言い難い魅力」を発光させているといってもいいだろう。
 表題作《トンボ》、昔のプロ野球の球団で、スタルヒン投手が三十九歳で三百勝を達成しようとする最後の試合-九回裏、ノーアウト満塁のピンチに、アイザワ・ススムというミクロネシア出身の同チームの投手が祖父伝来の呪術によって、大記録を達成させるという話である。
 しかし、この呪術を使えば、願いは叶うがそれにまさる大きな災いが襲うという。スタルヒンの最後の一球は「くるくると青い炎を上げ」て捕手のミットに入る。そして災いが到来する。
《ちょっと歪んだわたしのブローチ》、この物語は、妻ある男が愛人になった女子大生と、彼女が故郷に戻り結婚するまでの最後の一カ月だけ同棲するという、奇妙な物語である。夫の望みを聞き入れてしまう妻の存在が妖しい光を帯びるラストは、現実というものを物語の力が浸食するあざやかな瞬間である。
《ザーサイの甕》は、ハマトウというヒキガエルのような金魚をめぐる綺談である。芥川賞受賞作の【村の名前】以来の中国に関わる材料が、自家薬籠中のものになっている。


〔著者〕 辻原登
 1945年、和歌山県生まれ。90年「村の名前」(文藝春秋)で第103回芥川賞を受賞、99年「翔べ麒麟」(読売新聞社)で第50回読売文学賞受賞。 2000年「遊動亭円木」(文芸春秋)で第36回谷崎潤一郎翔受賞。他に「マノンの肉体」「黒髪」「森林所」「家族写真」「発熱」などがある。


  《川端康成 文学賞》
   
 川端康成の死の半年後の昭和四十七年十月、井上靖を理事長として、財団法人川端康成記念会が 設立され、十一月十五日に文部大臣により設置が認可された。翌年一月十六日の財団評議員会で短 編小説を対象とする「川端康成文学賞」の創設が決まった。それより前、役員のうちの文学関係者、 井上靖(理事長)北条誠・川端香男里(常務理事)、小田切進(理事)、山本健古、中村光夫、舟橋聖一、藤田圭雄、今日出海、瀬沼茂樹、徳田雅彦(評議員)などで審査委員の銓衡を進めており、その結果をうけて評議員会・理事会は永井龍男、中村光夫、舟橋聖一、山本健吉、吉行淳之介の五氏に審査委員を委奏することとした。三月二十七日に井上理事長は日本近代文学館で記者会見を行い、川端康成文学賞の設定の発表を行った。

 授賞の規定は次のようになっている。
一、審査の対象は短篇小説とし、その年度における最も完成度の高い作品に授賞する。
一、第一回は昭和四十八年一月号より四十八年十二月号までの総合-文芸の諸雑誌に発表された作品、及び昭和四十八年一月より十二月までに刊行された短篇集に収録された作品を審査の対象とする。但し短篇集収録作品の場合は、その雑誌発表の時期が数年遡ることを妨げない。
一、審査は第一回は昭和四十九年四月とし、以後毎年四月中旬に行う。
一、審査委員は五名とし、三年を任期とする。
一、第一回受賞決定は、雑誌「新潮」六月号に発表し、同時に受賞作を掲載する。
「その年度における」という規定と、短編集収録の作品の場合、数年遡ることを認める規定は、一見矛盾する。しかし短篇集収録のおりに、作者による取捨選択、作品の手入れ、手直し等を経て、改めて読者の前に出されることが多い。その意味で短篇集の場合は雑誌初出の年にこだわらないでいいという意見が大勢であった。最終審査の行われる四月中旬は、慣例として康成命日の四月十六日となった。
なお、川端康成生誕100年の1999年(平成11年)の前年を区切りとして、授賞25回までを一期として一休止し、新潮社より『川端康成文学賞全作品』(1999年6月・上下2巻)を刊行した。第二期は、小川国夫、秋山駿、井上ひさし、津島佑子、村田喜代子を審査委員としてスタート。本年は通算30回目の授賞を行った。


【第一期受賞者一覧】
審査委員:
 永井龍男、中村光夫、舟橋聖一、山本健吉、吉行淳之介、井上靖、島尾敏雄、大江健三郎、水上勉、竹西寛子、三浦哲郎、秋山駿、田久保英夫
               受賞者・掲載誌・審査員
第25回 1998年(平成10年) 村田喜代子 望潮 文學界一月号 水上・竹西・三浦・秋山・田久保
第24回 1997年(平成9年) 坂上 弘 台所 新潮九月号 水上・竹西・三浦・秋山・田久保
小田 実 「アボジ」を踏む 群像十月号
第23回 1996年(平成8年) 大庭みな子 赤い満月 文學界一月号 大江・水上・竹西・三浦・秋山
第22回 1995年(平成7年) 三浦哲郎 みのむし 新潮一月号 大江・水上・竹西・三浦
第21回 1994年(平成6年) 古山高麗雄 セミの追憶 新潮五月号 大江・水上・竹西・三浦
第20回 1993年(平成5年) 司  修 犬(影について・その一) 新潮二月号 吉行・大江・水上・竹西・三浦
第19回 1992年(平成4年) 吉田知子 お供え 海燕七月号 吉行・大江・水上・竹西・三浦
第18回 1991年(平成3年) 安岡章太郎 伯父の墓地 文藝春秋二月号 吉行・大江・水上・竹西
第17回 1990年(平成2年) 三浦哲郎 じねんじょ 海燕五月号 井上・吉行・大江・竹西
第16回 1989年(平成元年) 大庭みな子 海にゆらぐ糸 群像十月号 井上・吉行・大江・水上・竹西
筒井康隆 ヨッパ谷への降下 新潮一月号
第15回 1988年(昭和63年) 上田三四二 祝婚 新潮八月号 井上・山本・吉行・大江・水上
丸谷才一 樹影譚 群像四月号
第14回 1987年(昭和62年) 古井由吉 中山坂 海燕一月号 井上・山本・吉行・大江
阪田寛夫 海道東征 文學界七月号
第13回 1986年(昭和61年) 小川国夫 逸民 新潮九月号 井上・山本・吉行・亀尾
第12回 1985年(昭和60年) 高橋たか子 恋う 新潮一月号 井上・中村・山本・吉行
田久保英夫 辻火 群像十月号
第11回 1984年(昭和59年) 大江健三郎 河馬に噛まれる 文學界十一月号 井上・永井・中村・山本・吉行
林 京子 三界の家 新潮十月号
第10回 1983年(昭和58年) 島尾敏雄 湾内の入江で 新潮三月号 井上・永井・中村・山本・吉行
津島佑子 黙市 海八月号
第9回 1982年(昭和57年) 色川武大 百 新潮四月号 井上・永井・中村・山本・吉行
第8回 1981年(昭和56年) 竹西寛子 兵隊宿 海三月号 井上・永井・中村・山本・吉行
第7回 1980年(昭和55年) 野口冨士男 なぎの葉考 文學界九月号 井上・永井・中村・山本・吉行
第6回 1979年(昭和54年) 開高 健 玉、砕ける 文藝春秋三月号 井上・永井・中村・山本・吉行
第5回 1978年(昭和53年) 和田芳恵 雪女 文學界二月号 井上・永井・中村・山本・吉行
第4回 1977年(昭和52年) 水上 勉 寺泊 展望五月号 井上・永井・中村・山本・吉行
富岡多恵子 立切れ 群像十一月号
第3回 1976年(昭和51年) 佐多稲子 時に佇つ(十一) 文藝十一月号 井上・永井・中村・山本・吉行
第2回 1975年(昭和50年) 永井龍男 秋 新潮一月号 永井・舟橋・中村・山本・吉行
第1回 1974年(昭和49年) 上林 暁 ブロンズの首 群像四月号 永井・舟橋・中村・山本・吉行


【第二期受賞者一覧】
審査委員 小川国夫、秋山駿、井上ひさし、津島佑子、村田喜代子
(平成12年、故川端康成氏の生誕101年を機に第二期が開始されました。)
平成17年 辻原登 枯葉の中の青い炎 平成16年新潮八月号
  第31回受賞作は選評とともに『新潮』6月号(5月7日発売予定)に掲載される。なお、同誌には川端康成・東山魁夷の往復書簡も掲載される。
第30回 平成16年 絲山秋子 袋小路の男 平成15年群像十二月号
第29回 平成15年 青山光二 吾妹子哀し 平成14年新潮八月号
堀江敏幸 スタンス・ドット 平成14年新潮一月号
第28回 平成14年 河野多惠子 半所有者 平成13年11月、新潮社刊
町田 康 権現の踊り子 平成13年群像七月号
第27回 平成13年 車谷長吉 武蔵丸 平成12年新潮二月号、新潮社刊『白痴群』所収
第26回 平成12年 岩阪恵子 雨のち雨? 平成11年新潮五月号
目取真 俊 魂込め(まぶいぐみ) 平成11年朝日新聞社刊 『魂込め』より